人と自分は違うよね。クリエイティブとプロダクト。

noteが完全に自分の頭の中の捌け口になっているのだが、noteってもっとクリエイティブな発信をする場所だよなと思って反省をしている。
それがnoteユーザーの求めているものだし、求められている(僕個人に、ではなく、noteというプラットフォームにおいて)以上は、そういった発信をしないとなと思った。

でも懲りずに雑記に走る。

色々な人の意見を聞いたり、作品を見たり聴いたりしていると、とても嫉妬に駆られることがある。どうして自分はこういう思考パターンではないのか。どうしてそこに至れないのか。といった具合に。

そこには明らかな違いがあって、一番わかりやすいのは幼少期〜学生時代の環境だと思う。その時期にどれだけ色々なものを抱えられたか、憤っていたか、あるいは苦しんでいたか。それによって、様々なクリエイティブなものや、デザインが産まれてくる。つまり、スティグマをえぐり返して、そこに対する回答を出せる。そして、それが自分には得られなかったものだと嫉妬する。

もちろん、そこに嫉妬するのはとても不健全なのは承知の上だし、クリエイティブやデザインがそこ以外からも産まれることは理解している。しかしそれでも、欲しがってしまう。

そして、クリエイティブな現場において、大切なのは人を見る事だと言うことを見落とす。

先程までの話の中では、クリエイティブの矛先について全く影も見えない。内蔵の話ばがりだった。

ここで気が付く。自分の世界、自分がどうするか、どうなりたいのか、しか見てない。

さて、これは死活問題だ。

クリエイティブはプロダクトに繋がっている。
プロダクトの先にはユーザーが待っている。
ユーザーからのフィードバックでクリエイティブは生きていく。

ユーザーのためにならないプロダクトは、誰も求めてない。当然だ。みんな自分が欲しいものを買う。

クリエイターは常にユーザーの事を見ているべきだ。
誰が何を欲しがり、何に一喜一憂し、何を思うのか。
大きな事件、事故。トラブル、悲報。何を思うのか。
どんな出来事にも、物事にも、情報のその先には絶対的にそれぞれの感情感性思考を持った人がいて、その人はプロダクトのユーザーであると言う事を見落としてはならない。

それは自分のプロダクトに問わず、常に、自分以外の世界の人を見渡して、興味を持ち、一つ一つのその先まで、その先には誰がいて何を思うのか、まで。考えるべきだ。

それがクリエイティブのスタートライン。そして、捉えるべきは物事ではなく、人だ。

きっと心の底から出来るのが1番だとは思うけど、自分には出来ないので、打算的でもいいかな。それでも人が喜んでくれればいいんじゃないかな。

ああ、結局嫉妬に対する答えは出なかったよな。まだ模索中と言うことで。溝の中。

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