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与える側の人間になりたい。

私の人生は「人から貰ってばっかり」の人生だ。

今日は、人が作ってくれたパンを食べて、人が作ってくれたワインを飲んで、人が作ってくれたラーメンを食べた。

西加奈子さんが作ってくれた芸術作品を楽しんで、日テレが作ったヒルナンデスを観て、ナユタン星人が作った曲のベース部分を模倣した。

そうやって、他人から色々貰って生きている。

帰省している友達が、僕に、お土産を買ってきてくれると言う。

また人から貰ってしまう。

外にご飯を食べに行く・外に美味しいお酒を飲みに行く・友達と一緒に遊ぶ、これらのシチュエーションにおいては、"楽しさ" すら人から貰っている。

自分の幸福さえ、他人がいなければ、満たされない。

楽しくない状態を、"誰もいないから" という他力本願なワガママで批判している自分がいる。

私は、私ではなく、私に"くれた" 人たちであると言っても過言ではない。


そうであるが故、わたしには、生産した経験がない。

生産の経験とは、先に私が述べたように、
「誰かが貰えるものを生産する経験」
と言える。

他人の感動に資する実用的なモノ・コトを提供できること、それが、生産する人に求められる能力である。

芸人であれば、「楽しさ」を生産するし、パン屋なら「食の幸せ」、コンビニ店員なら「一つ一つは些細な困り事(積もるとストレスになる)を解消する機会」を提供する。

いずれも、ある一定のニーズがあり、生産することで、私が今日したように、誰かが貰い、そして幸せになる。

私は、「誰かが貰って幸せになる」モノを私が生産したことがない。と思っている。


そもそも、与えるためには、"与える相手"がいなければならない。

僕には友達が居ない。

牛角で焼肉を食べたいと思っても、真っ先に誘える人がいない。富士急ハイランドでアトラクションを楽しみたくても、誘える人がいない。

私の愛を欲しがっている人もいない。

バイト先の人はそれぞれ彼氏と宜しくやっているか、卒業制作に追われている。

友達関係は、状況を共有して、感情を増幅させること。それによって幸せを与え合う関係なんだと思う。

もっとも身近な「与える相手」が友達だと思う。

そんな時、友達が居ないことは、「与える相手がいない」ということだと思う。与える相手がいないから、与える必要がなく、目的がないところに生産活動は生まれない。

火のないところに煙は立たず、種がないところに生命は宿らない。

与える相手がいない事も、自分にとっての課題であるといえる。

"与える相手" という観点を持った時、就活でも、「誰にどんな幸せを与えたいか」という視点は有効に働くように思える。


社会人は生産する義務がある。

就活の話を出したが、大学を卒業したならば、働き、学んだ事を活用して(しなくても)社会に幸せを与えなければならない。

「社会人は生産する義務を持つ」という命題は、今働いている大人たちが、自分の負担を減らす為にも新たに人を取り込む為にも、脅し文句のように使っているとも考えられる。

「酒だって飲めるし、車も運転できるよな、よし、お前ら、働け」的なニュアンスを含む「働く義務」なのか。

「働くこと」にネガティブなイメージを持っている時点で、私は今ひとつか。

「社会人には働く義務がある」という言葉を否定するわけではない。

働いてるから社会人と呼ぶのであって、働かなければ、働いている人と同等の人間性が保証されない点で、働くことの価値が見える。


生産しなければならない。

貰う側ではなく、与える側になれるか分からない。

今まで貰う側だった。与える側になった事がないので、与える能力があるか分からない。

この感情は日本人特有の不確実性回避傾向なのだろう。

恐らく、わたしにも生産能力はある。

きっと、なんでもできる。

貰う側の、楽さ、快適さを知っているから、生産する側に行きたくないのだろう。

保守的というのだろう。

生産する側にも楽しさはある。

きっとある。金が入るし、人に感謝されるし、自分を褒めてやれる。


まだ「生産する側」ではないが、社会勉強という意味で、自分の幸せを、自分で生産してみる。

義務ではないので、この活動を継続させることは難しいかもしれない。

誰に与えるか、友達を作るところから、困っている人を見つけるところから、始めようか。

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