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自己の紹介

 私はよく変だと言われてきた部類の人間である。なぜ変なのかはよくは把握できていないが、おそらく人より考えることが多いことが原因なのだろうと思っている。これは勿論のこと主観的意見であるがゆえに本当に周りより考えていると断定することはできないが、つまりまあそんな気がするのである。悪く言えばめんどくせえ奴なのである。

 例えばどんなことがあっただろうか。私は外食が苦手なのである。これはよく理解されない話の代表例であるので多くの人には当てはまらないのだと思うので話す。なぜ嫌いなのかは高校生になるまで考えてこなかったのだが、考えて分かったことは大きく二つあり、一つは食べ物を運ぶ人を見るのが怖いこと、二つは椅子である。食べ物を運ぶ人の怖さは発表会の舞台に立った時の緊張感に似ている。落とさないかな、お皿割らないかな、こぼさないかな、こぼしたら掃除しないといけないな、掃除するときの客の視線といったら怖くて自分なら絶対この仕事やらないな。そんなことが頭に浮かぶ。

正直なところこの考えが普通だと思っていたものだから理解されなかったときは少しショックだった覚えがある。また椅子についても厄介である。飲食店にもよるが、多人数の席は長椅子のように席がつながっている場合も少なくない。このとき、皆さんも経験されたことがあると思うが、奥に座った人が出るにははその手前の人たちが一旦席を立つしかない。これが申し訳なくて申し訳なくてたまらない。なぜあの形式がなくならないのか、改善策が出てきていないのか私は長年不思議である。その他苦手な部分は沢山あるがキリがないので割愛する。

 そもそもこのタイトル「自己の紹介」もいろいろ思うことがあってこうした書き方をしている。よく新しい場にいくと自己紹介という儀式が機械的に執り行われている。私はこの儀式の意義を疑問に思っている。自己紹介というものの、言葉の「雰囲気」だけを見るのではなく「文字の意味」をちゃんと考えると、”自己”を”紹介する”のが直意である。「名前は山田太郎です、何歳です、読書が好きです、あだ名はなんでもいいです、好きに呼んでください」などといったところで結局そいつと何時間か話してみなくちゃそいつのことは分からないし、その時間はいらなかったと毎回思ってしまう。そもそも自分のことを自分で紹介するのは無理があるように感じる。他人が見る自分と云うのは主観的な自分ではなく客観的な自分である。つまり主観的なことを言っても仕方がないのである。

 とまあここまで好きなように思うことを書いてきた。ある程度しっかり自分をむき出しにしてみた。この話でもって、自己紹介とさせてもらう。自分をむき出しにして、あとは周りが解釈する。この双方のやり取りが「自己の紹介」に当たるのだと今は思っている。話をまとめるのがとても苦手で申訳がないが、今回はここで終わるとする。皆様方も一度、自己紹介について考えてみてもいいと思う。


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