「朝起きたら死んでますように」#3

輝きを失ってしまったものを作ったとき、そのとき、その先はどうすればいいのでしょうか?

人は自分の中にもう一つの自分と住んでいる。

私の中のもう一人は今でも「もうこの辛い人生、終わりにしようよ」と叫んでいる。その声が夜寝るときにどうしても頭の中で響き渡る。

「諦めるのは簡単だ」

「生きたいけど生きれない人たちもいる」

まあ、事実だろう。事実だけど、他人である私にとってそれを「自覚」は出来ない。だから「終わりにしたい」と響き渡るんだろう。所詮そうは言われてもお互いに他人の人生だ。最後の最後は自分の判断になる。

でも、おかしいことにかつてそれらしい道を歩いていた時はこの声は聞こえなかった。かつては普通の人達と同じように暮らしていた。しかし、その暮らしが急に崩れた。ある日突然に、自分の意思とは関係なく。しかも今でも立て直すことが出来ないままでいる。

このまま終わってしまえばいい。そう考えてある時期から常にナイフを部屋に置いてある。いつでも終わらせることが出来るように。そう、もう人は私を必要としていないのです。

「命に嫌われている」作詞・作曲 カンザキイオリ様

という曲があるのだけれど、あれってこういう時のことを歌っているんだなぁと考える。それまで遠くに置いておいてあった終わらせるという事柄が私の手前に来るとは思わなかった。

この歌の歌詞に「それに感化された少年がナイフを持って走った」という一文がある。

確かにそうだ。確かに。

命に嫌われているという、一見意味がわからないこのフレーズ。まさしくそうだと私は思う。常に行動は命を持っているはずなのに、その命に嫌われいるんだから。

一旦我にかえり、ふと天井を見上げる。

「それでも死について考えるか」

それまで何となく怖くて遠ざけていた死ぬことについて考えなければならないと考え始めた。

でも、これって過去の哲学者っぽい人たちがいろんな説を唱えてきている。

たぶん、死ぬということに正解は無いんだろう。それが答えだ。

正解がないのであれば自ら命を絶つことだって一つの答えなのかもしれないと考えても間違っていないとも思う。

でもそうすると別の考えが立ち上がる。

「自ら命を絶つことが出来る状況に来て、自ら命を絶つことが生きてきた目的だったのか?」ということである。

ふと気になりネットで叩いてみる。警視庁 自殺者 人数

令和3年 4月時点での自殺者は

「7133人」

多い、少ないではなく、事実として受け取るとどうだろうか?

私は別にいい人ではない。この数字を見て悲しむほどその人を知らないのもあるけれど、この数字の裏側にはもっと多くの物語があったことは私もわかる。

だから私はこの数字を目の前にしてある感情が出てきたんだ。

「悔しい」とね。

「人生は物語のようである」と例えることがあるのだけれど、これを語る場合、実はすでにネタバレを食らっていることに気が付く。

「実は生きてきた結果は死ぬことである」ということ。

これが生きた結果である。

でも、これは人に限らない話でこの地球上に生まれた生きとし生けるもの全ては死を結末にしている。

あなたがもし「すごく楽しみにしていた映画の結末を劇場前で聞いた時」その映画を100%楽しむことが出来るだろうか?

昨今ではゲーム実況のようなものが流行っているが、それでエンディングを知ったとき、最初からゲームを楽しめるだろうか?

・・・・答えは否に近いだろう。

だから私は声をあげようと思う。

「人は生きた結末を知っている。だから楽しくはないんだ」とね。

生きる過程がとか生きる様がとかよく言う訳だけれど、それってどうなのだろうか?とも思うわけです。

「じゃあ」と考え直すわけだ。これを繰り返し繰り返し考えても平行線。変わらないままで意味が無い。

疑問符の付け方を変えよう。

「人はなんで地球に生まれてきたんだ?」ってね。

宇宙人は今のところ見たことがないけど、私は居るんじゃないかって思っている。

根拠はあるのか?といわれると私はこう切り返す。

「命」を見ることが出来ないが「生きているもの」は見ることが出来る。

それこそ人とか植物、動物とか。

要するにそういう目には見えないけど、確実にそこにある「命」というものが宇宙人だとしたら我々には見えなくても当たりだろう。

こういうことを言うとオカルトが嫌いな人や非科学的な話は何やら危ないと思われるかもしれないが、実際のところ目に見えない力ってのは存在するわけで、その代表格が命じゃない?

「鋼の錬金術師」 作者 荒川弘さん

この漫画に出てくる主人公エドワード・エルリックは自分のお母さんを生き返らせるために錬金術師としての禁忌を犯してしまう。

それが人体錬成。

エドは人体を構成している成分を集めて、陣を組んで錬成するのであるが、出来上がったのは「母親っぽいなにか」である。

命の輝きまでは封入できなかったのかその「母親っぽいなにか」はしばらくすると死んでしまった。

現実には人体錬成などという神業は私の知る限り存在しないが、人体を構成している成分は調べれば出てくるだろう。

ただ、もちろんそれらを寄せ集めても人を作ることができない。

命が足りないんだよね。

意識とは違うわけよ命って、だって寝てるとき無意識じゃん?でもある程度睡眠をとるとまた自分に返ってくるわけよ。夢を見るか悪夢をみるか暗闇を見るか。それは多分その時々で違うんだと思うのだけれど、人は無意識に生きてるわけよ。

だからいうなれば「眠りから覚めるときは意識が体に戻ってくる」みたいな感じじゃない?多分。

じゃあ多分お母さんのお腹の中で命が誕生したとすると、そこから死ぬまでの期間、自分たちの体には命が宿っていることになる。

実は命自体に優劣をつけることも、命自体に価値を付けることも出来ないってことで、実は人に価値を付けるのは性格だったり、考え方だったり、それから能力だったりするんだよね。

これって生きていれば何となく誰に価値が有る無いがぼんやりと出て来ちゃう。

「自分の持っている物を外側に出すとき、優劣をは測られる」ってことになる。要は他人が評価をするってことになるってことよ。

我々は泣きながら生まれて、文句を言いながら生きて、失望しながら死ぬ。
~イギリスのことわざより~

この諺もそういうの良く捉えてると思う。

「私は私の中に相反する私がいて、それは2つの世界を持っている」

表に出てこない感情と、裏の感情。そして社会性と個人性。

この4つが複雑に絡み合い、憎しみ合い、いがみ合い、愛し合い、連なって今ここにある世界を構築している。

この中でどれか一つだけを気にして生きていければどんなに楽なことなのだろう、と考えたことも在る。

逆に言うと、人生が上手く行かない、つらい、いろんなことがあって辞めたいと考えた時、死にたいと考えることが「出来る」のはこの4つが別物であるから。

もし、体と考えが一つならば「自分が決めたことを否定しあわない」わけじゃない?体は生きてる。でも心が死にたがってるとき、ナイフを手に取り、切り付けてみれば、痛いはずじゃん、苦しいはずじゃん。

切り離されているからこその感情なのよ。


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