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渋谷で錯乱しなかった話

 ハライチの漫才&トークライブがあるので、およそ1年ぶりに渋谷に行った。通りはヒューマンたちで溢れていて、この街には疫病の報せは届いていないのかとおもってしまった。

 連れがハレの日に履く靴を見たいというので、西武に行ってジミーチュウのヒールを履かせたり、渋谷PARCOのグッチのパンプスを試させたりして遊んでいた。ついでにPARCOで秋冬の男物はどんなものが出ているかなと見て回っていた。すると、ある服屋の販売員さんがぼくのことを覚えていて驚いた。

 なにせ渋谷に来るのが1年振りなのだ。以前常連で今はすっかりご無沙汰しているというならまだしも、ぼくはその店で試着をしたことはあっても結局買わずに帰ったので、その方はぼくの名前すら知らない。そのうえ今時分は皆一様にマスクをしているので、輪をかけて個人認証が難しいであろう。よく顔を覚えていらっしゃるものだ。

 強いていえば、ぼくは接客される時に長時間にわたって鬼のように喋るため、その方に「面倒な客」とずっと記憶されていた可能性はある。アパレルの販売員さんというのは大変なお仕事だ。この日、さらにその方に「面倒な客」とおもわれたに違いない出来事があった。そのことを書く。
 
 店頭にある総量の3分の1くらいの量を試着し続けていたところ、販売員さんが「そういえばあなたが1年前に試着してとても悩まれていたあのコート、まだバックヤードにあります」という。持ってきていただいた。黄色の無地の襟なしコートで、ボタンは黒。肩はすとんと落ちるつくりで、身頃の四方に折り紙のようにプレスを利かせているため、着用するとちょうど箱に包まれているかのような見た目になる。2019年の秋に試着して3時間ほど悩み、結局買わずに帰ったときのあのコートだった。すぐさま試着したところほんとうに素晴らしいつくりで改めて感動した。

(本題とは無関係だが、新しい服を試着するたびに手を消毒していたので消毒液の消費量が尋常ではなかった)

 他にもコートを次々に試着していたところ、またしても素晴らしいコートを見つけてしまった。ご説明申し上げる。地は薄緑、着物でいえば女郎花とか薄柳に近い色味で(秋だから女郎花のほうが適当かもしれない)、その背面にグランドピアノがモチーフの大胆なデザインを施したパラシュートコートである。美大の絵画科が刷毛を使って黒・緑・茶・青などの絵の具を重ねて描いた油絵をもとに、コンピュータグラフィック科が遊びを加えた、といった感じ。「このコートは特に似合いますね」と何度もいってくれるので、その気になってしまった。ちょろ。

 とはいうものの、そんなコートが2-3万円で売っているはずがなく、購入検討は難航をきわめた。前者の黄色のコートがおよそ7万円、後者のピアノコートがおよそ10万円という価格帯。以前も書いたが、今にも貧窮問答歌をうたってしまいそうな身の上だ。買い物にはかなり慎重にならざるを得ない。

 鏡の前でうんうん唸っていると、連れが販売員さんに「女性のハレの日の靴なら、PARCOよりもヒカリエのほうがあるのでは?」とアドバイスを受けていた。ハライチのライブの開演時間もあることだし、一旦その方に別れを告げ、ヒカリエに向かった。結果として、ヒカリエにも彼女が満足するような靴はなかった。「ジミーチュウを超える靴はなかなかないのかも」という結論を得たようだ(そりゃそう)。そうして彼女は帰っていき、ぼくはハライチのライブに向かった。

 ライブはおよそ2時間で終わり、会場のLINE CUBE SHIBUYA(旧名:渋谷公会堂)からPARCOまで戻った。結局ライブ中もそのコートのことばかり考えていた。買う買わないは別として、脳味噌に居座り続けたのは後者のピアノコートだった。シンプルでプレーンなデザインばかりがもてはやされる昨今の風潮に辟易していた、というのもあるかもしれない。

 販売員さんにチェシャ猫のような顔で「おかえりなさいませ」などといわれながら、再度ピアノコートを羽織る。素晴らしい。もう買う寸前にいる。あとは数点の懸念事項を自分のなかでクリアするだけ。その懸念事項というのは、以下の4点である。

①かなりインパクトの強い柄のため、服の合わせ方が難しい

②素材がポリエステル 100%で、やや薄手の生地のため、厳寒期に堪えられるか不安

③もうすでにコートをしこたま持っている

④値段(最大の問題)

 以上のことを販売員さんにお話しする。すると彼は応えた。「なるほど……でも、すでにご自分のなかで答は出ていらっしゃるのでは?」

 そのとおりなのだ。①については、そもそもこの絵柄がドンピシャなのであって、むしろこの独創的な絵柄のコートにどんな色のシャツやスラックスや靴を合わせようかと悩む時間こそがぼくの人生を豊かにする。つまり懸念のように見えて懸念ではないのである。試着をしまくった結果、コート自体の立ち襟にふんわりとした厚みがあるため、レギュラーカラーのシャツやクルーネックのニットよりも、スタンドカラーのシャツやモックネックのほうが合うという結論も出ている。従ってこれは愚痴に見せかけたノロケと同じである。

 ②についても、薄手とはいえ高密度に織られたポリエステル生地のために風を通しにくく、雪国ならいざ知らず、からっ風が吹く東京で着る分にはむしろこういった生地のほうが向いている。さらに身体とコートの間にゆとりがあるため、真の厳寒期にはユニクロのウルトラライトダウンを仕込めばいい。これも愚痴に見せかけたノロケを喋るクソ野郎と同じだ。

 次に③については、販売員さんの言葉を借りれば「仕方ない」ことなのだ。服好きの男が陥りがちな沼の代表格は「シャツ沼」「コート沼」「靴沼」といわれている(と勝手におもっている)。この販売員さんはシャツ沼の住人だったので、「私の家にもシャツが埋もれるほどある。着る暇もないくらいある。でも買う。なぜならそこに美しいシャツがあるから」といっていた。ガンプラだらけの趣味部屋を持っているのにまだガンプラを買ってくる男がいるが、そういうことなのだ。すなわちこれも愚痴に見せかけた以下略。なお、服好きの女性の場合の三大沼は「ワンピース沼」「靴沼」「鞄沼」である(「化粧品沼」を入れて四大沼とする有識者もいる)。

 ちなみに彼は、絞りが利いているものよりもボックスシルエットで肩がゆったりと滑らかに落ちるシャツが好みらしく、そのために今働いているお店のシャツはドンピシャなのだという。絶対にタックインしないと決めているため、いわゆるドレスシャツにありがちなラウンドテイルではなくスクエアテイルがいいのだとか。わかる気がする。服に関心がないヒューマンから見れば「なんでもええがな」とおもうだろうが、沼の住人はそれぞれの心に独自のこだわりを持っており、それは決して自分からは喋らないが、ひとたび問われれば小一時間は語ることができるものなのである。

 ともかくもそういうわけで、①-③についてはただのクソノロケだった。しかし④はいかんともしがたい障壁である。またしても鏡の前で唸る。その販売員さんのシフトは19時50分までなのに、時計を見ると19時53分だったので、「すみません、後日出直しましょうか」というと、「いえいえ大丈夫ですよ、ご存分に悩まれてください」と朗らかにお応えになる。そりゃ客に「一旦帰ったほうがいいか」と問われて「そうですね帰ってください」という販売員などいないので、本心ではないのは百も承知だが、その言葉に甘えて少し粘る。

 ちょうどそのとき店長さんが近くにいたので、「彼を長時間拘束してしまってすみません、もう少しで結論出しますので」とお伝えした。「そんなことないですよ、お気になさらず」と笑顔で応えてくれ、「どの点で悩まれているんですか?」と訊かれた。こういった点で決断しかねているとお伝えする。店長はなぜこのコートがこの価格なのかということを説明してくれた。

 普段そのブランドの服は創業者であるデザイナーを中心にしたチームによってデザインされている、と店長はいった。それは知っていた。彼は続けて、「このコートのグラフィックは、◯◯という著名なデザインユニットが手掛けたんです。今までも私どもの服のPR写真などを担当していたんですが、彼らはこれこれこういう有名な仕事もしている集団なんですよ」と教えてくれた。

 それを聞いて、「なるほど! わかりました。やめます」と販売員さんと店長にお伝えした。お二人ともびっくりなさっていた(そりゃそう)。

 長時間拘束して申し訳なかったと改めて陳謝し、一連の丁寧な対応にお礼を申し上げ、辞した。決して彼らの対応に不満があったわけではない。断じてない。結局買わなかったのは、そのデザインユニットが手掛けた絵柄だということを知ったからだ。

 貧窮問答歌をうたってしまいそうなぼくがその店の服を買うのは、衣服そのものの実用性や審美性のためだけではない。なによりもデザイナーの思想を着ているという幻想にお金を払っているのである。

 たとえば最初にも書いたグッチというブランドがあるが、創業者であるグッチオ・グッチはすでに故人であって、今はアレッサンドロ・ミケーレがデザインを担当している。いうまでもなくこういったケースは非常に多い。シャネルもディオールもそうである。また、創業者は存命だが今のデザイナーは創業者本人ではない、というケースも往々にしてある。これらは当たり前のことで、創業者が他界したからといってすぐさま会社を解散するわけにもいかないし、企業として服飾業界に存続するためには新陳代謝は重要だ。

 1着のコートのために散々に悩んだこのブランドは、創業者が存命で、しかもその創業者が中心となったチームが今も製品をデザインしているという稀有な例なのである。

(このあともごちゃごちゃ言ってたのだがぼくの不注意で下記の記述が消えてしまった)
(一部誤字を直そうとしたらこうなった)
(面倒なのでそのままにしておく)

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