見出し画像

花粉さえなければ春の旅は楽しいのに①

自室から

 12時前に床に就く。深夜2時50分に入眠を諦める。どうせ眠れぬならこのまま起きておこう。なぜなら旅行初日の夜の宿は熊本市のサウナ施設「湯らっくす」のドミトリーだからだ。個室でもないし、ベッドでもない。うまく眠れないおそれがあるから、少し寝不足気味のまま行けばまず間違いなく眠れるだろうと踏んだのである。

    踏んだのである、とさも計画的かのように書いたが、実際には深夜4時が近づくにつれまぶたはトロトロしはじめて、少しだけ眠る。5時過ぎに起きる。雲が空を覆い、朝日は見えない。

 だからといってもうひと眠りするのは危険。飛行機の出発時刻は10:45とやや遅め。とはいえそもそも飛行機の搭乗が15年ぶり。よって搭乗手続きその他の面で幾重にも要注意。さらに空港のカードラウンジに行くという個人的な目的もあったため、少なくとも10時前には羽田空港第2ターミナルに着いていたい。

 二度寝(厳密には三度寝)には至れず、仕方がなくテレビを付けて録画した『ゴッドタン』を観る。内容はもちろん頭に入ってこない。テレビを消す。眠気を洗い流すために熱いシャワーを浴び、洗い流せなかった眠気とともにぼんやりと紅茶を飲む。

 ようやく着物を着る。それにしてもこの「着物を着る」という表現はまったくどうしたらよいのだろう。「食べ物を食べる」だとか「携帯電話を携帯する」と同じような心地悪さを覚える。かといって「長着を着る」とか「襦袢を着る」と書いても脳内で映像化しにくい。いっそ「着物を着る」と潔く書いたほうが読者にとってはわかりやすい。だから「着物を着る」と書く。

 それで話は朝の身支度である。15分でもろもろの支度を済ませ、部屋を出る。7時半を過ぎていたようにおもう。

 多少の雨に濡れても大丈夫だという大島紬を選んだが、部屋を出た直後に雨とも呼べぬような小雨が降り始めた。とはいっても霧雨のようなサーッとしたものではなく、視認できるほどの大きさの雨粒。なぜよりによって今。苛立ちを覚えつつ大股で走る。先日、着物に雨染みができて泣きを見たというエッセイを読んだばかりであったから、余計に気になる。

 大島だし少しくらいの雨なら、とはいえ濡れずに済むならそのほうが、でも朝っぱらから草履でダッシュはつらい、さりながら……。逡巡しながら走る。オノマトペは「タッタッタッ」でも「スタタタ」でもなく「ドタバタ」などが適切であろう。息を切らしてなんとか駅に付いたが、帯は上がるわ襟は乱れるわで、その様は見られたものではなかった。トイレで今一度身支度を正し、電車に乗る。


京急本線

 電車内。半分眠り半分起きているまじでめちゃくちゃねむい。羽田空港に向かう京急本線の社内はスーツケースを持った人が多い。天空橋を過ぎたあたりで、三四郎・相田周二氏が一時期、天空橋を新居候補にしていたことが頭をかすめる。眠くてもうそれくらいしか覚えていない。アナグマに空港到着時間などを知らせる。

 アナグマはこの旅の同行者で、人間である。この文章に彼のことを書いてよいか本人に確認したところ、了承を得た。ただし、「Dえもん」とか「N原Sのすけ」といった表記は嫌いなので、仮名を付けてほしい、どうせなら自分自身の個体性とまったく結びつかないような名を勝手に付けてくれ、との要望を受けた。「インクくん」とか「魚肉ソーセージちゃん」とかのように。

 そういうわけで、彼をアナグマと名付ける。アナグマは先日、濱口竜介『ドライブ・マイ・カー』と松居大悟『ちょっと思い出しただけ』を同じ日に連続で観た。「だいぶ疲れた」といっていた。週刊少年ジャンプを電子書籍で購読している。サウナといちごが好きだ。本はほとんど読まない。そのような男である。


羽田空港

 9時7分に羽田空港第1・第2ターミナル駅に着く。駅のホーム直通の地下1階から、出発/到着ロビー階につながるエスカレーターに乗り、頭上のドーム状の天井を見上げ、涙のスイッチが入りかける。空港での別れの記憶と、この光景とが脳内で絡み合っているためだとおもわれる。卒業式の桜の木とかそういうものと近い。この日は持ち堪えた。

 検査場前のロビーでアナグマと合流。スーツケースを持たず、手提げ鞄ひとつに全荷物を詰めていたぼくを見て、ふだんの大荷物っぷりを知っているアナグマは驚いていた。

    しかしそんなことより彼が髪を緑に染めていたことにぼくは驚いた。前から見るとなんともないが、襟足の部分だけ蛍光色の真緑だったのだ。「非日常がはじまることを身体に“わからせる”ために染めた」という。有給休暇と土日を合わせて5日間の非日常期間がおわる日に染めた部分の髪を切り、労働者に戻る儀式にするのだと話していた。わからなくもない。

 柳田國男がいうには人生とは特別な日であるハレと日常生活のケとの繰り返しであり、ハレの日の衣食はケの日のそれとはまったく異なるものとされた。彼の行動もきっとそういうことである。

 おもった通りアナグマの服は上下ともにイッセイミヤケのオムプリッセであった。ベージュに近いカーキ色のブルゾンと、青みがかったライトグレーのパンツ。ベージュのスウェードブーツを履いていた。なお後日聞いたところによるとこのブーツは高校生のころから約10年履き続けているという。彼はアクセサリーの類はつけない。

 さてすでに書いたように、空港での個人的な目的のひとつにカードラウンジ体験があった。堂々と書くのも恥ずかしい。何せ最後に飛行機に搭乗したのは中学生の時だったのだ。クレジットカードを持って以来、一度もラウンジを利用する機会に恵まれなかったのであるから、いちど活用してみたくなるのが人情というものであろう、と開き直る。

 最初に「エアポートラウンジ南」に向かう。受付で、係員に搭乗チケットとクレジットカードを見せる。チケットを見た係員の女性が「あなたの搭乗口に近いラウンジはここではなくあちらだが、それでもこのラウンジに入りますか?」という旨のことを訊いてきた。入ります。なぜなら行けるラウンジすべてに行きたいので。

 入った。ふんふん。はいはい。こういうことね。トマトジュースとカフェラテを飲む。ホームページで予習はしていたが、まあこんなものだろう。10分もしないで次の目的地である「POWER LOUNGE NORTH」に行く。

 といってもこの道程がべらぼうに遠い。ここで図を参照されたい。羽田空港2階の地図である。

まじでめっちゃ遠い(画像は羽田空港公式サイトから)

 手荷物検査を受けて制限エリアに入ったのは①の検査場Aである。そしてまず向かった「エアポートラウンジ南」が②で、次に向かった「POWER LOUNGE NORTH」が③のエスカレーターを上ってすぐのところにある。地図上では近いように見えるが、なにせここは羽田空港なのだ。この距離といったらほとんど軽い散歩のそれであって、たしか片道だけで動く歩道を5回は使った。誇張でなく2-3キロメートルはあったのではないか。

 それで話はラウンジである。3階にある「POWER LOUNGE NORTH」は「エアポートラウンジ南」よりも個々の椅子の間隔も広く、まことに快適であった。窓からは数々の飛行機が停まっている駐機場が見え、曇り空の向こうには太陽がかすかに感じられる。先程のラウンジにはなかった黒酢ドリンクと豆乳青汁があるのが嬉しく、飲みまくる(子どもの振る舞いというほかない)。

 アナグマものんびりとしていた。こと飛行機の搭乗については一日の長があるアナグマが「出発時刻の10分前に搭乗口に行けばいいから」といっているので、安心して3杯目の豆乳青汁を飲む。

 身支度を済ませ、ゆったりと搭乗口に向かったが、この時点で我々は大きな間違いを犯していた。搭乗口は10分前ではなく、10分前“までに”通過しなくてはならなかったのである。あまつさえ、あまりにゆったりしていたために出発時刻まで10分を切った段階で搭乗口に着いた我々は、複数の職員に「お急ぎください」と急かされることとなった(返すがえすも恥ずかしい)。

 座席に着いた。にわかに飛行機に恐れを抱いていることをおもい出す。山崎豊子『沈まぬ太陽』の話柄や、向田邦子が台湾の空に散ったことなどに基づく恐れである。しかし心療内科に「恐怖症」の病名を付けられるには至っておらず、よくある程度のちょっとした怖がりなのだが、本人としては緊張するのに変わりなく、恐怖を感じる時間が少なく済んだという意味ではギリギリで慌ただしく搭乗したことは結果としてよかったともいえる(よくはない)。

 窓際に座ったアナグマが「なあ見ろ、ロコンの飛行機あるぞ」という。雑に返事をする。余裕がないから。

灰色の空と灰色の舗道に挟まれたロコン
(撮影:アナグマ)

 安全のためのアナウンスはビデオではなく、数名の客室乗務員が通路に立って実演する形式だった。非常時は酸素マスクがどうのこうの、安全姿勢がどうのこうのといっている。実演が終わる。

 飛行機が動き出す。怖い。仮に機体が海に落ちたとして、着物を着た人間は浮きやすいのであろうか、それとも沈みやすいのであろうかなどと考える。考える間に我々が乗る鉄の塊はぐんぐんと速度を上げ、きわめてあっけなく離陸した。気絶はしなかった。よく耐えたと自らを称えたい。第2ターミナルの国内線出発ロビーにある「POWER LOUNGE CENTRAL」に行けなかったことに気付いたのは飛行機が軌道に乗り出してからだった。

 窓際席はアナグマが座っており、すっかり“たくましく”なった彼の身体越しに列島や瀬戸内海をちょっとだけ眺める。4月の太陽に照らされたそれらはきっと美しかったろうが、まだ緊張状態にあったぼくが景色を十分に堪能したとは言い難い。仮に窓際だったとしても流れる雲を見下ろすことには消極的だったとおもわれる。『ペルソナ』シリーズの音楽のリミックスを流しながら『日本霊異記』を読む。

写真で見るとぜんぜん怖くないのに……
(撮影:アナグマ)

 搭乗中もっとも印象深かったのは機内アナウンスだった。「飛行機は気圧の影響を受けて大きく揺れることがありますが、安全運行に支障はありません、予定通りに目的地に着きます」というお決まりのフレーズを15年ぶりに聞いて、「人生もかくあれかし」と深くおもう。


阿蘇くまもと空港

 阿蘇くまもと空港に着陸。二ノ宮知子『のだめカンタービレ』で、飛行機恐怖症の千秋真一が、のだめに催眠術(?)をかけられ、克服のファーストステップとして北海道へのフライトに挑戦するシーンがある。同行する峰龍太郎の腕にしがみつきながらなんとか飛行機に乗って、無事に北の大地を踏んだ千秋が、空を見上げ、「なんだ、こんな簡単なことだったんだな」と拍子抜けしていたことをおもい出す。この時こそぼくは千秋の気持ちがよくわかったのである。

 空港は、ただでさえ鄙の熊本のなかでもさらなる僻地に所在するだけあって、東京より空が高く、かつ青く見え、まことに晴れがましい。春の山々のどけきや、と詠みたくもなる。

 アナグマは「植樹されている木々の種類が東北とは違う気がする」などという。ぼくにはわからない。我々はこの3日間にわたって「晴れてほんとうによかった」と幾度も繰り返すが、その台詞はこの時が初出であった。

 アナグマの希望を汲んで、空港のフードコートで1時間ほど休憩する予定を立てていた。「車を運転するまえに調子を整えたい」というからである。が、この期間は空港施設の拡張工事中で、フードコートや各種ショップが大きく縮小していることを知った彼が「もうレンタカー借りちゃってもいいや」と言い出し、早速に車を借りる。


車、熊本市外、昼

 まずはアナグマがどうしても行きたいという有名な熊本のラーメン屋に向かう。空港から市内への道筋はおおむねまっすぐな一本道で、路傍には菜の花が咲き、そこかしこに散り損ねた桜が見え、前述のとおり空は青く、まさしく春爛漫といった風情。晴れてほんとうによかった。

 道中に古着屋で有名な「西海岸」を見つけてはしゃぎ、「時間あったら帰りに寄ろうよ」と言い合う(もちろんそんな時間はなかった)。

 乗車するやいなやカーステレオをBluetoothでSpotifyにつなぐ。さあこれでぼくはDJである。前日の時点では車内で最初に流す曲として『1/6の夢旅人 2002水曜どうでしょうの主題歌』を(安直にも)想定していた。にもかかわらず、これを書いている今の今までそのことを忘れており、結局この曲は旅行中に一度も流れることはなかった。

 スピッツ『さわって・変わって』、松任谷由実『やさしさに包まれたなら』、クリープハイプ『栞』、ORANGE RANGE『以心伝心』などを次々に流す。春の陽気に当てられているのがわかる選曲。

 しかしその流れは突然変わった。「そういえばガッシュが『ガッシュ2』として帰ってきてんの知ってる?」とアナグマがいうのだ。

「知らん、ガッシュってあのガッシュ?」
「あのガッシュ」
「連載?」
「連載。スマホで読める」
「どう」
「ちょいシリアス。続編みたいな感じ。大人になった清麿が出てきたりしてる」
「ガッシュよかったよな……」
「よかった……。はじめておれ漫画全巻買ったもん」とアナグマ。(今後読ませてほしい)
「まじで」
「まじ。漫画だと『金色のガッシュ!!』で、アニメが『金色のガッシュベル!!』なんだよな」
「なんで?」
「さあ……、でもどっちもいいよね」
「どっちもいい。というかあのアニメのオープニングが本当に最高」
「『カサブタ』は最高、まじで」

 という会話のあとの、アナグマのリクエストナンバーはもちろん「カサブタ」であったが、Spotifyにはカバー版しかなかった。そうかあ、と残念がるアナグマに対し、まあ慌てるでないお若いの、と声をかける。スマホのSDカード内の音楽ファイルから千綿ヒデノリの「カサブタ」を掘り起こした。高校時代にTSUTAYAに通ってCDを借りまくる経験はこういう時に活きるのだ。

 ドラムが鳴ってギターがあの印象的なフレーズを弾いた瞬間、車内の熱気は最高潮に達した。

「旅行がいままさにスタートした」
「確かに休日が始まる音だった」
「『ガッシュ』は日曜の朝のアニメだったから、このイントロが流れると脳に『日曜の朝だ』との信号が送られるのではあるまいか」
「というか今日は日曜だった」
「そうだ、今日は日曜だ。つまりまさにいまが“日曜の朝”なのだ」
「その通りだ、時計は14時といっているが、我々にとっては今が朝なのだ」

などと口々に言い合い、突然ぼくが叫ぶ。

「あ! ちょっと静かに!」
「え、なに? どうした」
「……いまの歌詞聞いた? “寝ても覚めても縛られる時間を少しだけ止めて”だってさ……ほんとにそう……」
「いやまじでそう……」
「つらい……」
「つらすぎる……」

 こうしたやりとりからわかるように、テンションが乱高下しつつも、両者が興奮状態に至ったことは事実であった。

「カサブタ」作詞作曲・歌唱の千綿ヒデノリ(偉功)氏は、
「Butter-fly」の作詞作曲も手がけている。
熱い。

 かつてアナグマと伊豆に行った際も似たようなことがあった。色々な音楽をかけ、試行錯誤の末に、日本海を横目に車を走らせつつZARDの「揺れる想い」を流した瞬間、
「今、ようやくこの空間にぴったりと当てはまるピースが見つかったのじゃ」
「御意にござります」
といった会話が取り交わされた。語尾が「じゃ」のほうがぼくだ。

 それで話はラーメン屋である。聞けば熊本グルメのひとつがラーメンなのだという。知っている。ぼくは熊本に関するほとんどの旅行雑誌を事前に読んでいたからである。アナグマが職場の他者に直接聞き込みしたところ、おすすめの店が「文龍」と「黒亭」の2軒なのだそうだ。

 たしかに市内には都市開発の計画性を疑うほどの頻度でラーメン屋と焼肉屋が乱立している。このあと食べた熊本のラーメンの味を先に書いてしまうと、濃いドロっとしたとんこつスープにさらににんにくを効かせた、きわめてパワフルな味である。

 熊本は(特に阿蘇周辺は)水がきれいな土地だというのに、いったいどうしてその水を殺すのであろうか。

 私見はこうである。少なくとも1600年代以降の肥後・熊本においては、一品の料理のなかに多くの調味料や食材を加えることをしなかった/できなかったために、食文化が粗朴なまま推移した。素材のままの味で満足したり、味をひたすら力強くすることが是とされたりした。その延長線上にパワフルな味付けのラーメンや、にんにくを利かせた馬刺しの食文化が生まれた。詳しくは後述するが、こうした潮流の背景には、ドケチかつド貧乏で知られた細川家が熊本藩を支配した歴史が少なからず影響したと踏んでいる。

 類似の事例は国外にもある。たとえばイタリアの料理はほとんどがオリーブオイル味かトマト味かガーリック味だし、北欧諸国はとんでもなく税金が高いせいで近代外食産業が未発達で、ほとんどの料理が大味なうえに単調である(らしい)。

 それはともかくとして、車はラーメン屋「文龍」に着く。おびただしい数の人間が並んでいる。即時Uターンし、もうひとつのラーメン屋「黒亭」に向かう。その軒先には数名が並んでいたが、アナグマは「この程度なら問題ない」と即断。「近くの駐車場に停めとくから、先に降りて並んどいてくれない?」といわれ、列のすぐそばでぼくだけ車を降り、ひとりで列に並ぶ。


ラーメン屋「黒亭」

 ここで読者はぼくの服装をおもい出してほしい。とっくにお忘れかもしれないが、和服なのである。しかも羽織付き。そんな男が目の前で車から降り、地方のラーメン屋の行列にひとりでパタパタ歩いていくとどうなるかというと、誇張でなく行列の全員から二度見される。しかし一度列に並んでしまうとただの一般市民と見なされ、別にコソコソされるわけでもチラチラ見られるでもなく、つつがなく順番がやってきた。

餃子セットを付けようか悩む筆者(撮影:アナグマ)

 黒亭に入る。玉子ラーメンを注文する。ラーメンが来た。食べ終わった。味は濃かった。


車、熊本市内、昼過ぎ

 次の目的地へ。アナグマがもしサウナに直行する場合、ぼくはひとりで熊本城周辺に密集している美術館、博物館、漱石の旧宅などを巡ろうと考えていた。しかしアナグマは「天気もいいしこのままサウナ行くのもったいないなあ」といい、これまたアナグマの職場の他者のレコメンドである「水前寺成趣園すいぜんじじょうじゅえん」に行く。一般には「水前寺公園」と呼称されることが多い。「なんか、晴れてたら園内を歩くの気持ちいいんだってさ」とのこと。晴れてほんとうによかった。期待。

 車での移動中、「銀座通り歩道橋」という表記を見て、「銀座通りだってー!」と笑い、写真を撮る。

 何がそんなに面白いのか。銀座なんて日本各地にある地名だというのに。旅行の気分というのは恐ろしい。こんなことですら面白いと錯覚させる。

うっかり面白いと錯覚した地名の歩道橋

 水前寺公園の近くの駐車場で降り、歩いて向かっていると看板に「こちらに行くと夏目漱石旧居があります」とのこと。行くしかない。


漱石旧居

 漱石は、29歳で熊本市の第五高等学校の英語教師になってから33歳で英国留学までの約4年間の熊本生活のなかでなんと6回も引っ越しており、当然、旧宅も複数存在する。熊本城の近くにあってぼくがひとりで行こうとおもっていたのが5番目に住んだ家で、現在は「内坪井旧居」と呼ばれる。我々が行ったのは3番目に住んだところで、「大江旧居」と呼称される。

漱石の大江旧居 in other words:簡素な平屋

 ちなみにこれは後から知ったことだが、熊本時代の漱石は、結婚、妻の流産、妻の自死未遂、実父の死、第一子の誕生を一気に経験している。この激動の4年間の直後に留学(しかも本人の意に沿わぬ英語教育法研究のため)し、慣れぬ土地で2年を過ごす。そりゃ神経衰弱にもなるというものである。

 大江旧居は玄関で靴(ぼくは草履)を脱いで入る。市の職員とおぼしき初老の男性が「そこに名前とお住まいを書いてください」という。疫病対策の一環なのであろう。和服姿を見て「何かお祭りですか?」と問われ、趣味だとかなんだとか適当に返す。中に入る。ふんふん。まあこんなものか。階段の上り下りが面倒になるまえに、こういった平屋に住みたいものである。

漱石ではない誰かが書いた「則天去私」の掛け軸
(撮影:アナグマ)

 漱石旧居を出る。門前で悩む。悩むというのは、グーグルマップによれば水前寺公園の入口は2つあるらしく、どちらも現在地より10分ほど歩く距離にあり、どちらがより近くにあるのか判断しかねていたのである。漱石旧居の職員さんに尋ねると、こちらのほうがちょっとだけ近いのでよろしいでしょう、と教えてくれた。しかも後からわかったことだがもう一方の入口はその時間には閉門していたため、彼の導きは完全に正解だったわけだ。ほんとうにありがとうございますと言いたい。


水前寺成趣園

 水前寺公園に着く。細川忠利の命で1636年ころに着工された水前寺御茶屋(茶室とその周りの庭園)がもとになった大きな池泉庭園だ。徳川家光が肥後熊本藩主二代目の加藤忠広に改易の沙汰を下して細川忠利を熊本藩主に任じたのが1632年であるから、ざっくりいうとここは「細川さんとこの初代が熊本藩に来てから4年目に作った公園」ということになる。

 ことに記憶に残ったのは水の美しさであった。公園のなかの溜池は当然として、周りを囲む水堀(藻器堀川しょうけぼりがわというらしい)ですら一切の濁りがなく澄んでいたのである。

 これまた後から調べてわかったことだが、この堀はただ上流から下流に流れ込むのではなく、堀のそこかしこから膨大な量の湧水が毎秒ドバドバと注ぎ込まれているのだそうだ。そのため、街の中を流れる水路にもかかわらず驚愕するほど美しいのである。なんと一部区域では夏に蛍まで飛ぶという。すごすぎ。

    ぼくは動く水(河とか滝とか噴水とか)を見ると年甲斐もなくはしゃぐ。その日も堀端を歩きながら「どうなってんだこの水の綺麗さは」と嘆息する。

 細川一族を祀った神社もあったが鳥居の前で「お邪魔しております」とだけいって通り過ぎる。というのも17時が閉園だというのに入園時点で16時半近く、30分で園内を一周する必要があったのだ。桜や梅が散りはじめていてかえってよかったかもしれない。盛りだったらもっと名残惜しかったことだろう。

 園内を散策中のことをひとつ書き留めておきたい。男児がこちらに向かって走ってきた。2-3歳といった趣き。向こうに母親らしい姿がみえるから、彼女の息子なのであろう。一瞬だけぼくたちの目を見たあと、ぼくとアナグマの間のわずか60センチほどの隙間を駆け抜けていった。するとアナグマは「かわいいな。遊んでほしいのかとおもったね、『お兄ちゃーん』みたいな感じで飛びついてくるのかと……」と笑う。

いま何と―――……?

 よろけそうなほどの衝撃。ぼくはその時「幼児あるある:『プライベートスペース無視しがち』」としかおもっていなかった。こいつを含む多くの人間は生まれながらにして慈愛が実装されているのか?

 アナグマは言い訳がましく「いや、甥がちょうどあのくらいで、いつも遊んでるからさ」と弁明。しかしぼくが仮に未就学児と日頃から遊んでいたとして、「他者の子が自分と遊びたそうにしている」などという発想が生じることは万に一つにもない。改めて自らの性質について考える。

 幼児はいいとして、池に向かって片腕を伸ばす松の枝に猫が鎮座していた。おもむろに近づき、数十枚の写真をお撮り申し上げた。猫は素晴らしい。「猫は素晴らしい」というのは「北の反対は南である」とか「人は必ず死ぬ」と同じくわざわざ言うまでもない真理なのだが、たまにはこうして書き残すのもいいではないか。

    この猫は白地に黒のブチが付いていて、「フォトグラフか? いいだろう、撮るがいい、人の子よ」と言わんばかりに泰然自若とこちらを見つめており、どこかの神使ではないかとおもった。(古代・中世においてカミは木の上に降り立つと考えられたうえ、なかでも松は特に神性を帯びる樹とされた)。

  

カメラに目線をお向けになるおキャット様on松枝よりしろ
猫の写真をお撮り申し上げる筆者(撮影:アナグマ)

 いよいよ閉園時間が近くなった。慌ただしく『古今伝授の間』を見学する(ぼくひとりが)。さて古今伝授の間というのは……いや、やめよう。

   古今伝授の間がいかに重要かを理解するには、『古今和歌集』がどれだけわが国のあらゆる文化史に影響を及ぼした巨星(歌集だから「星群と書くべきか)であるかについてまず説き及ぶ必要がある。そしてそのためには本が1冊(というか本棚が1架)必要だ。そんな力はない。語り尽くせないことについては沈黙せねばならない。だから沈黙する。ここでは古今伝授の間の写真を嘆息しながら撮りまくったことだけ書けば十分であろう。

撮りまくったくせに凡庸な構図の写真しかないけど
「古今傳授之間」って立て札が見える?

 閉園を知らせる園内アナウンスに追い立てられて退園。駐車場に戻りつつ、またしても濠端の清水をしげしげと見下ろしながら歩く。アナグマが道の向こうに喫茶店を見つける。ちょっと覗いてみたいという。喉は渇いていないが、まあいいだろう。接近。看板の下にはこのような表記。

「寿司弁当」とあったのを「寿司ランチ」に上書きしていた


喫茶店兼寿司屋

 カフェメニューと寿司の両方を出す変わった店。やや興味が強くなり、入店。我々以外の客はいない。テレビから流れる「ビートたけしのTVタックル」の映像と音声が、初台の新国立劇場でバレエを観たあとの円山町の匂いのように、水前寺公園の余韻を消す。

 メニューを運んできたご婦人にアナグマが「面白い組み合わせですね」と声をかける。「別に面白くはないわよ」とのお返事。続いて「あたしがコーヒーであのひとがお寿司なの」と教えてくれながら胡麻塩頭の男性を目で示す。老夫婦で営む店のもよう。アナグマはコーヒーを、ぼくはアイスココアをそれぞれ注文。運ばれてきたココアの上にはバニラアイス。ココアは80mlほど入っていたようにおもう。飲む。出る。


車、熊本市内、夕方

 車に乗る。走る。18時ころに「湯らっくす」に着く。遠くから見るとモスクのように見える。
「モスクだったんじゃないの、これ」と仮説を唱える。
「そうだったかもね」と相づちを打つアナグマ。
「真ん中のドームがなんかそれっぽい……、モスクを居抜いたのかな」
「このへんにイスラム教文化圏あったの」
「いや知らん。……あれ、モスク? ムスク? モスクだよね?」
「モスク。合ってるよ」といいながらアナグマが車を停めた。

湯らっくす。
中央のドームと曲線の庇付きの門がモスクっぽい。
(写真は公式サイトから)

 モスク(mosque)は英語で、アラビア語ではイスラム教の礼拝堂を「ジャーミイ」とか「マスジッド」と呼ぶそうだ。ムスクはジャコウの香だった。

 なお、湯らっくす滞在中、我々は何度か車を駐車場から出し入れしたが、いずれの機会でもあぶれることなく駐車できた。そのうえいつもかなり素晴らしいスペース(門扉のすぐ前など)に停められた。

「なんでだとおもう? ぼくが神に愛されているからだよ」
「へー……、さすがじゃん……」
 アナグマはこうしたぼくの物言いに慣れており、数年前からもうほとんど反応してくれなくなっている。


湯らっくす

 さて、サウナ好きである彼が「聖地」と呼ぶ湯らっくすに入る。今おもうと、彼はこの瞬間がこの旅行中でもっとも興奮していたかもしれない。

 湯らっくすでの趣深い事案として、まずはWi-Fiのパスワードを挙げたい。こうした施設の利用客が使えるゲストWi-Fiは、入力時の混乱を防ぐため、分かりやすいIDとパスワードを用意することが多い。ぼくはこのゲストWi-Fiの愛好家である。理由は、経営者(もしくは当該施設のIT担当者)のセンスがそのまま出るからである。

 たとえば、上野・不忍池のほど近くにあった水月ホテル鷗外荘のWi-Fiのパスは(もう閉館してしまったから書いてもいいとおもうが)、鴎外の代表作の名前だった。また、よく行く服屋のWi-Fiパスは、一見無意味な文字列なように見えたがしばらくしてからその秘密に気づき、「なるほど! あれがこうでこうだから、こうなってるんですね!」と膝を打った。

 湯らっくすのWi-Fiパスは一見安直そうに見えた。が、一部分だけが奇妙な文字列だったので、「なんでこんなパスなんだろうね」とアナグマにいうと即座に「○○○だからでしょ」と答えた。感動。アハ体験である。

 コロンブスの卵と一緒で、いわれてみると誰がどう見ても○○○だからその文字列なのに、最初見たときは全然わからなかったのだ。ぼくの勘が鈍いだけかもしれない。

 第二の記憶はサウナの「アウフグース」という催しで、詳しくは各々調べてほしいが、サウナ室に「熱波師」と呼ばれる職員が入り、バスタオルで強く扇いで熱風を客に送るサービスである。一体それの何が楽しいのか、と訝しむ人間は正常であるといえよう。

 サウナはもはや現代日本におけるひとつの文化として形成されつつあり、いわゆるガチ勢も多く、滅多なことをいうとバチボコに叩かれる。これはサウナにほとんど興味がない人間の意見として聞いてほしいが、アウフグース中に脳裏に浮かんだのは次の一文である。

サウナと云ふは究極のホモソーシャルと見つけたり

 当然だがサウナ室内にいるのは、わざわざ好き好んで高温多湿の部屋に集まる同好の士だけである。その空間を包む雰囲気にもっとも類似したものを数少ない記憶のなかから探り出してみると、おそらく男子校のそれに近いとおもわれる。しかもぼくが味わったアウフグースでは、熱波師がサウナ室に防水スピーカーを持ち込み、その場に適した音楽を時にはしっとり、時にはガンガンにかけ、目の前で舞いながら(「舞うように」ではない。実際に「舞う」のだ)タオルを仰ぎ、場合によっては客を煽りながら展開する一大エンタテインメントであって、もうほとんどTDRやUSJのショーといってよい。

 裸の男どもが苦しみながら、しかし笑顔にもなり、ショーが終われば一斉に熱波師を称えて拍手する状況(疫禍でなければ喝采もするらしい)は奇怪ではあるが、妙に爽やかでもある。混沌だ。サウナ室にいた連中はほとんどが20代だったから、より一層、青くさい雰囲気に呑まれてしまったのかもしれないな。青春はどどめ色藤井風もいってたし

 第三の記憶は、食堂のアジフライ定食である。このアジフライは実に素晴らしかった。肉厚なアジがそもそも新鮮なのはもちろんとして、タルタルソースもきわめて上質なものであった。

水が旨いからなのか白米ですら美味だった

    料理のことはまったくわからない。ただ、通常タルタルソースには刻んだピクルスを入れるが、ここでは粗く刻んだらっきょうを混ぜていた。この役割が大きかったことは疑いない。また、おそらく酢の割合を控えてゆで卵の分量を高めていたとおもわれ、これがやや硬めの質感とやさしい味付けにつながっていそうだった。

    タルタルソースが(過剰に)好きな大沢たかおが「エビフライはタルタルソースを乗せる棒」との名言を残した(とされる)のをおもい出した。

アナグマはこの夜に麻婆豆腐定食を注文しており、彼の舌にドンピシャの味付けだったと述懐しているから、互いにベストな選択だったといえよう。

 第四にして最後の特筆すべき点は置いてある漫画の質と量である。湯らっくすの2階は大量の漫画の棚がある。その量は尋常ではない。漫画喫茶のそれに近い。そして『よつばと!』と『らんま1/2』があったのだ。すばらしい。ぼくはご機嫌で『よつばと!』を数巻手に取り、自分のドミトリーに持っていき、2-3巻読んだあたりで入眠した。『よつばと!』はすばらしい。入眠はおそらく25時ころだった。もっと読んでいたかった。すやすや。


車、熊本市内、夜(余談)

 時を戻す。夕食にアジフライを食べ、ぼくが食休みをとっていたところ、アナグマが「どうしても文龍を諦めきれない」と言い出した。もう読者は忘れているとおもうが文龍は昼に行こうとしてバチボコに混んでいたラーメン屋だ。そして味も強い。そんな店に夕食後に行くわけがない。あほか。

 行った。我ながらあほだ。行ったのだ。わざわざ車で。旅はこういうことが起こる。だからおもしろくもあるのだが……。ただ、実際に店に入ると店員が「数分前がラストオーダーで」という。時計を見た。21時40分ころだったとおもう。ほっとした。さあ帰ろう。ぼくが車の助手席に着くか着かないかで、アナグマはぼくの目をまっすぐ見て告げた。

「ちょっと『東京から来たんです、諦めきれないんです』って交渉してみるわ」

いま何と―――……?(5時間ぶり2度目)。

「いやお前……お前……、お前って……わりとこういうとき粘るんだな……」
「うん、粘る。行ってくるわ」
ぼくは相当言葉を選んだとおもう。

 アナグマは行った。戻ってきた。交渉してもダメだったという。そりゃそうだろ。

夜の「文龍」の店構え 画面右下にいた5人は全員若い男
(撮影:アナグマ)

 あれだけいっていたぼくも小腹が空いてきて、その時間から何か軽く食べられる店を探したが、そんな店はどこにもなかった。唯一、九州チェーンのうどん屋が開いており、オーダーも受けていそうだった。「まったくコシがない」と音に聞く九州うどんに興味があったぼくはちょっと寄ってみたかったのだが、何せアナグマは超こってりラーメンの口だったため、折り合わなかった。「明日か明後日に時間があればこのうどん屋にも寄ってみよう」ということになった気がする(そんな時間はもちろんなかった)。

 店員に恥も外聞もなく交渉するほどに食べたがっていたラーメンを食べそこねたアナグマを不憫におもったぼくは、カーステで矢野顕子の「ラーメン食べたい」を流した。傷口に塩といえなくもない。

 「ラーメン食べたい」のあとは、『湯らっくす』に戻るまでの約30分間、坂元裕二脚本『大豆田とわ子と3人の元夫』の主題歌である「Presence」をバージョン違いで延々と流しまくっていた。本筋から逸れるが、『大豆田とわ子と3人の元夫』は近年まれに見る卓抜したテレビドラマであり、その主題歌の「Presence」もバージョン違いのⅠからⅤまで、そしてもちろんRepriseまですべて素晴らしい。

 さらに話が逸れるが、いま「すべて素晴らしい」と書いた。こういったとき、格好つけようとして「すべからく素晴らしい」と書いてしまい、嘲笑される人をよく見る。「すべからく(須らく/須く)」は漢文の構文のひとつで、「すべからく~~べし」までがワンセットとされるからだ。(意味は「当然~~すべきだ」)。

 だがもうこれは「すべからく」に新しい語法が加わった、と解釈していいようにおもう。言葉は変化するものなのだ。宇多田ヒカルの愛読書でおなじみの萩原朔太郎『詩の原理』には以下のような用例がある。

真に実在さるべきものは、かかる醜悪不快の現実でなく、すべからくそれを超越したところの、他の「観念の世界」になければならぬ。

萩原朔太郎『詩の原理』

 「当然~~すべきだ」という意味の残り香はあるものの、「すべからく~~べし」の形を守っていないことは明らかである。すでに1928年において本来の語法が崩れていることが確認される。またこの文中の「すべからく」を「すべて」と入れ替えても差し支えない。ちなみに安吾も1931年までに以下のように書いている。

すべからく「大人」になろうとする心を忘れ給え。

坂口安吾『ピエロ伝道者』

 朔太郎と安吾というずいぶんと偏った引用元になったが、とにかく彼らですら本来の語法から外れていたのだから、その100年後の一般庶民の話法において意味すら変容していたとしても仕方ないことだといえよう(もちろん昔も「すべからく~~べし」の語法を守る人も多くいたが)。

 よって、2022年に「ラーメンはすべからく美味しい」という人を見つけても、決して嘲笑せず、「あらあら、格好つけようとしたのね、うふふ」と微笑ましく見守ろうではないか。

 それで話は夜のドライブである(やっと)。「湯らっくす」に戻る35分の間、「Presence」の放つに当てられたのか、アナグマは「女性と結婚はしたい、でも労働はしたくない」「冗談抜きで家事を永遠にやっていたい、でも現今の社会はそれを許さないケースが多い」といった持論を展開しはじめた。話はそこから縷々と展開し、議論は白熱して戦後の政治形態の問題にまで至った。本筋からあまりにも逸れるためここに書くのは控えるが、いい議論をしたとおもう。

 ともかくもこうして「湯らっくす」に着いた我々は、片や「もっかいサウナ行ってくるわ」と言い残して浴室に消え、片や『よつばと!』を手にしながらドミトリーで眠った。かくして旅行初日の夜は更けていったのである。


次回予告

どうしても熊本ラーメンを諦めきれないアナグマ。
和装に草履の装束スタイルで渓谷に踏み入り山岳を駆け回る松井。
頼むから旅行中にはおこるなと祈ったにもかかわらず無情にも頭痛が襲いかかる。
我々の総入浴時間はいったい何時間になるのか。
そしてこの旅行記の総文字数はいったい何文字になるのか。
次回「花粉さえなければ春の旅は最高なのに」2日目。
乞うご期待。
嘘。期待などするな。何物に対しても。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?