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誰もがムリと考えた宅急便サービス、他をぶっちぎるトップの着想と決断に学ぶ

おはようございます。ドドルあおけんです。

さて、経営戦略・事業開発の火曜日。今日はロジスティクス業界に引っ越してきて、ロジスティクスの巨人ヤマト運輸の宅急便を作り上げた小倉元社長の「経営学」から時代が変わっても学び多い経営の真髄を学びたいと思います。

小倉社長(ここから元をとりますね)本人が引退後に執筆していて、その内容の濃さから1回では消化できないので、何回かに分けて、この火曜日の枠でご紹介したいと思います。切り口は今のところ、「着想・決断編」「組織マネジメント編」「ファイナンス編」「番外・官僚機構との闘争編」の4回くらいいけるんじゃないかと思います。

小倉昌男社長略歴

小倉社長の本を読んで昭和の孫正義といった印象を受けました(孫さんが平成の小倉昌男、ということかもですが)。今は大会社のヤマト運輸ですが、小倉社長が主導した数々の挑戦の結果であり、まさに起業家精神の塊のようなお方です。

実務家らしく話がわかりやすく、筋が通っていて、事を前に進めるために常に合理的な判断をし、関係者を粘り強く説得しながら誰もが無理だと思っていることをやり抜いてしまいます。

そんな小倉元社長の略歴から見ていきましょう。いつもようにWikiからです。

【悔いのない人生を送るためには…「宅急便」創始者・小倉昌男が語る】___BEST_T_MESコラム

小倉 昌男(おぐら まさお、1924年12月13日 - 2005年6月30日)は、日本の実業家、ヤマト福祉財団理事長。ヤマト運輸の『クロネコヤマトの宅急便』の生みの親である。東京都出身。 
1943年秋、東京帝国大学経済学部入学。1947年、東京大学経済学部(旧制)卒業。1948年、父・小倉康臣が経営する大和運輸(現・ヤマトホールディングス)に入社。
入社後半年で肺結核を患い4年間の入院生活を送るが、大和運輸がGHQ関連の輸送業務を担当していた為、日本国内ではほとんど入手困難だったストレプトマイシンを米軍ルートで入手できた事もあり、当時としては奇跡的に回復。退院後静岡県の子会社の再建を手がけたのち本社に復帰し、1961年に取締役となる。
1971年、康臣の後を継いで代表取締役社長に就任した。1976年、オイルショック後に低迷していた大和運輸の業績回復のため『宅急便』の名称で民間初の個人向け小口貨物配送サービスを始めた。サービス開始当時は関東地方のみだったが、その後、配送網を全国に拡大し、ヤマト運輸(1982年に商号変更)が中小の会社から売上高一兆円の大手運輸会社に発展する基礎を築く。1987年、代表取締役会長に就任。
宅配便の規制緩和を巡り、ヤマト運輸が旧運輸省(現・国土交通省)、旧郵政省(現・日本郵政グループ)と対立した際、企業のトップとして先頭に立ち、官僚を相手に時には過激なまでの意見交換をした。

若い頃大病を患ったり、一代で日本全国をカバーをるインフラ網(物流⇔通信)を創り上げ、そのプロセスで政府と大喧嘩したりとか、最終的に兆で数える規模まで会社を大きくするとか、なんかいろいろ孫さんとリンクしてて面白いです。

誰もが無理と考えた宅急便、その着想と決断に学ぶ

今は当たり前のように集荷をお願いすれば、荷物を取りに来てくれる宅急便ですが、その当たり前は、数々のドラマの末に生み出されたものです。

全国どこでも翌日届きます!、って口でいうのは簡単ですけど、やり始めるまでは、どれだけの人が使ってくれるかわからないし、過疎地でも届けないといけないし、そのために拠点たくさん作んないといけないし、それは最初に大赤字が出るのは誰が見てもわかるし、その投資がいつ回収できるかもやってみないとわからないところがあります。

孫さんもヤフーBBの時、モデム配りまくって大赤字出してましたけど、何年にも渡って赤字が出ることがわかってて、(少なくとも外野からは)回収できるかわかんない、みたいな事業を始めるってサラリーマン社長だったら無理ですよね。

ヤフーBB_モデム_配る_-_Google_Search

事実、宅急便も黒字に転換するのに5年の歳月を費やしています。

当時の運送業界は、大手企業との法人契約がメインでした。大手のアカウントに営業を集中し安定した仕事をもらえるかどうかが焦点で、どこから集荷依頼がくるかわからないtoC向けのビジネスは非効率極まりないと考えられ、絶対に採算に合わないと同業各社から見られていたのです。

しかし実際にはサービス開始後、評判が評判を呼び、当時まだ残っていた法人顧客の最大手である松下電器(パナソニック)に対して、契約解除をヤマト側からお願いしにいく、ということが起こりました。宅急便事業に集中するため、一番の大口顧客を断りに行く、なかなかできることではありません。

ということで、まず、この宅急便を始めるに至った経緯を見てみましょう。

変化を促された危機

戦前から運送業をやっていたヤマトはトラック輸送&近距離一筋だったんですが、戦後に長距離、そして三越をはじめとする百貨店の配送業務、航空、海運へと事業領域を拡大・多角化していきます。

これにより本業だった近距離トラック運送は全体の売上の半分以下まで下がり、多角化が成功したように思われました。しかし、近距離トラック部門が脆弱となり、百貨店の売上が伸びていくとそれをカバーするために人材や資材などの固定費がかさみ始めます

百貨店は中元・歳暮の時期の配送量が通常月の7〜8倍になるという極端な需要の波があるため、平常月の余剰リソースが利益を押しさえげていくという構造的な問題に陥ったんですね。

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ここに1974年オイルショックが起き、三越から配送料金の引き下げ要求をされたりで、赤字に陥っていくことになります。これを受け、緊急不況対策として、社員の新規採用を禁止、臨時職員の減少を行い、元々6500名いた社員を5500名へと削減しています。

しかし、この時に正社員を一人たりとも切らなかったことが後々の宅急便開始の際の労使交渉で大きくプラスに働くことになります。

宅急便誕生の裏に吉野家モデルあり

他の運送会社の多くが地方に本社があり人件費が安めなのに対して、ヤマトは東京に本社があり、労働組合もしっかりしているので、賃金ベースがどうしても他社よりも高くなってしまう。運送業が労働集約産業(全コストの60%が人件費)である以上人件費が他社と月給ベースで5000円も違うと、普通のことでは競争に勝つことはできないのです。

このような状況の中でいくら営業努力を重ねても業績好転は難しい。であれば、仕事を変え、新しい市場を目指したほうがよい、と考えた小倉社長は競争相手が今の所郵便局しかない個人宅配市場に目をつけたのでした。

そこで新しいビジネスを考えてる時に小倉社長がたまたま新聞で見たのが、いろいろあったメニューを止めて、牛丼ひとつに絞って成功している吉野家だったのです。

吉野家の歩み___吉野家公式ウェブサイト

絞ることでお客さんが離れてしまう、と考える経営者が多い中、吉野家は牛丼に絞ったことにより、良質な肉を安く仕入れることができ、味が良いし安いと評判になりました。その上、メニューがひとつなのですぐ出せるし、スタッフも素人のアルバイトでいいので人件費を抑えられる、すごいモデルだ小倉社長は思ったんですね。

ヤマト運輸の得意とした分野は昔から小さな荷物。消費者に近い小規模企業や家庭から出る荷物である。ならば、思い切って対象とする市場を変え、メニューを絞って新しい業態を開発したら、道が拓けるのではないか

こうして宅急便の構想は徐々に固まっていったのです。

着想を現実に落とす

どこから発生するかわからない需要に一個から対応するというひどく効率&採算が悪そう、というデメリットをどうしたら抑えることができるかを考える、それが経営者の仕事だった、と小倉社長は言います。

その方法を思いつき、実行できれば、競争相手は郵便局だけで民間企業は一個もないから、この市場を制覇することも夢ではないと考えていたといいます。大事なのはそれをどう具体的にしていくか、小倉社長はまず市場規模を掴みに行くところから始めます。

めざすは年間1250億円市場

当時郵便小包が1.9億個、国鉄小荷物が0.6億で合計2.5億の小さい荷物が日本国内で配送されていることを調べた小倉社長は、1個500円として1250億円規模の市場と想定する。

ここで市場規模として十分だと考えた社長は一番の課題である集荷体制をどう確保するかを思案し、その結果住宅街に営業所を置きクルマでこまめに回る以外に「取次店」として、主婦の馴染みのある酒屋や米屋に持ち込める制度を考案する。通常500円かかる送料が取次店持ち込みでお客さんは100円引き、さらに取次店には取次料として100円払うことでヤマトとして実入りは300円に減ってしまうが、その分集荷効率を上げ、カバーエリアを拡大することに成功するのです。

天満屋米穀店_-_柿崎商工会商業部会の地元に全国に情報発信

これによって取次店のお店は醤油などついで買いが発生し、たいそう喜んでもらったと書いてあります。

これからはじめようとするドドルのクリック&コレクトも発想は全く一緒。すでに日本の古きアントレプレナーは取次店という自社以外の拠点をネットワーク化して物流を最適化しようという発想を実行に移し、成果を上げていたわけです。畏敬の念を抱かざるを得ません。

実行計画、そして手にした果実

最初に設定する拠点の数も様々なリサーチの結果、地域の治安を維持する警察署が全国に1200あることに着目し、1200をベンチマークとして地域の配送センターの設置を決めていきます。

その後、物流拠点としてのベース(1.6万平米)約50と、配送センター(〜1500平米)1200を全国に設置するための敷地と物件賃貸の資金調達のめどをつけ、それらを準備した上で、1976年に満を持して「翌日配達」を掲げ宅急便サービスが開始されます。

最初は利益が出ないが、構築したネットワーク上を荷物がどんどん流れれば必ず損益分岐点を超え、利益が出る、というのが小倉社長の結論で実際そのとおりの展開になっていきます。

次が宅急便の取り扱い個数の推移です。見事です。

1976年: 175万個
1977年: 540万個
1978年: 1817万個
1979年: 2226万個
1980年: 3340万個
1981年: 5617万個

サービス開始後、5年で損益分岐点を超え、営業利益率5%と他社が羨む実績を叩き出し、他社が儲かると勘違いしてこぞって参入してきたようですが、緻密に考えられたオペレーションと組織づくりで他社を寄せつけません。

もうすぐ40年! 宅急便のこれまでとこれから__2_3__-_ITmedia_ビジネスオンライン

当時、クロネコに対抗して、動物を掲げれば儲かる、というよくわからない視点でいろいろな動物のマークの運送会社があったみたいですが、そこじゃない、ってことがわからない人が少なくなかったのかもしれません。

このように小倉社長の大胆かつ緻密な経営判断とそれを運用する組織づくりにより、他国に例を見ない高品質な物流体制を日本にもたらしたわけです。

僕もアメリカで暮らしてはじめて日本の物流レベルの高さを思い知りましたが、そのサービスレベルは優れた経営者が率いるチームがあくなき努力の上に創り上げたものなんですね。

学び・気づき

・自社の強みと既存プレイヤーが気づいていないニーズや、採算性が悪いと判断して突入していない領域にこそチャンスがある

・ただ、そのチャンスを活かすためには貪欲に吸収した知識とよりよい戦略に落としていく研ぎ澄まされた思考の積み上げが必要

・吉野家に着想を得たように、異業種の成功事例などを抽象化して自分がいる業界に転用できないか、の視点は大事

・着想を具体化するための資金調達含めた実行プランに落とせるかどうか、一個一個の合理的判断の積み上げ力が試される


ということで本日のお話は以上です。

次週の火曜日は、今回の続きとして小倉社長の組織づくりという視点で書ければと思います。

日報

・役所で手続き(AM)
・Returnについての資料読み込み(PM)
・Internal syncup (5:30pm)
・デバイス調整やりとり(P/Z/D)

ということで明日はEC・ロジスティクスの水曜日。コロナが与えるロジスティクスの影響について書いてみようかと思います。

マーケティングの月曜日
経営戦略・事業開発の火曜日
EC・ロジスティクスの水曜日
DXの木曜日
グローバル・未来の金曜日
ライフハック・教養の土曜日
エンタメの日曜日

それでは、今日もよい一日を。

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