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現状を受け入れることとブロックを外すことは両立する

2023年6月11日(日)🌗22.5 🌤4:25-18:57
24:芒種  72:腐草為螢(くされたるくさほたるとなる)

下弦。
そして今日あたりが、夜明けが早いピーク。もう数日で折り返しを始める。
小雨のなか、猫たちはよく眠る。
腐った草が蛍になる、というのは、日本の七十二候で、唯一、想像上の現象なのだそうだ(中国の七十二候には、もっと奇想天外なものがあるらしい)。実際には腐った草から蛍が生まれたように見える季節なのだろう。

先日、ペーパードライバー講習の1日特訓コースを受けた。
3万円以上する。加えて、私は2020年にも10万円弱のお金と時間をかけて、8回講習を受けている(それぞれ2〜3時間だけれど)。
それでも私は、まるで運転ができるようにならない。怖くて怖くて、まだ一人で車を出したことは一度もない。

先日実家の近くを繰り返し運転したことで手応えを感じ、今回もわずかな成長が感じられたものの、時間切れでやりたいと思っていたこと(指示を受けずにナビ走行、多車線を自由に走る、第三京浜に乗る)までは辿り着けなかった。インストラクターからは、交通量の多い多車線の道は、まだ、横に誰か乗っている状態で少し練習したほうがよいと言われた。

落ち込んだ。インストラクターには言っていないが、私はこのとおり公共交通機関が不自由である。ならばと車移動に賭けてみたところ、これほどまでにできない。
夫や友人は、免許を取ったあと数回乗っただけで、当たり前のように運転ができている。

「普通の人が普通にできることが私にはできない」

これが、ここ数年の私のキャッチフレーズだ。
こんなこと、20代の私が知ったらなんて思うだろうか。正直、こんな未来が待っていると知ったら命を絶つ。
あのころ私は、たった一人で試験を受けてものすごい倍率の大学に入り、たった一人で東京へ出てきて暮らし、たった一人で就職活動をして編集者になって、たった一人で海外出張などしていたのだ。

ここで、誰かに言われたか、自分で自分に言っているのか、もう一つの声が聞こえる。
「一応は五体満足で、養ってくれる夫がいて、適度にクリエイティブなバイトをして、猫を2匹飼って、東京の便利な場所に暮らしている。あなたは恵まれている。鬱ではないし、苦手なこと以外は普通にできる。移動が不自由とて、人の力を借りてよほど平均的な人より旅行しているじゃないか。練習と称して京都だの北海道だの台南だの。病気のおかげで子育てもせずにすんで」

「できることに目を向けて」「あるものを数えて」と、いう言葉が、この13年間、私をがんじがらめにしてきた。
正論である。間違いではない。じゃあ、普通の人が普通にできることを、諦めたまま受け入れるのが正しい道なのか。不治の病ではないというのに。

さらに、「諦めた時に、現状を受け入れた時に、憑き物が落ちたようにうまくいくようになりますよ」というパラドックス理論まで繰り出されると、もう手に負えない。ただでさえ苦しいのに、これ以上私にどうしろというのだ。どんな点に恵まれているか、私はちゃんと自覚的である。なのに、
「だったら感謝を言葉に出して」
「ありがとう、おかげさまで、といつも笑顔で言っていると幸せになりますよ」

は〜知るかよ

ところが、自分で「はあ、五体満足なだけで、ふだん正気で暮らせるだけで幸せなのだな」と思うことも、時折ある。

今朝早朝、蒸し暑さで目を覚ますと、瞼の裏に刃物が見えた。
幻覚ではなく、私は軽い刃物恐怖症のようなところがあり(幸い、実際に刃物を使うのはほとんど怖くない)、痛い場面の想像にかられることがあるのだ。
なんでも、パニック持ちや不安障害になる人には、このように「痛い想像が、普通の人よりありありと想像できすぎてしまう」という共通項があるらしい。
私はしばらく不安発作に向き合い、ストレッチをしたり呼吸をしたりツボを抑えたりなど、さまざまな方法でなんとか乗り切って再度眠った(もちろん薬も飲みましたが)。

目を閉じるたびに怖い映像が出てきてしまったら、おちおち眠ることもできない。でもPTSDの人なんかは、そういう傾向があるのだろう。世界の戦地にいる人たちを思う。
そして私も、2014年の秋、凄まじい不眠に陥ったことがある。眠っていなさすぎて、体が鉛のように重く、眠れもしないのに起き上がることもできなかった。まさに瀕死の数か月だった。鬱の人は、変動はあれどそんな感じなのだろう。しんどすぎる。

だとしたら、特定の恐怖や不自由があるだけの私は、それを避けてできる範囲で生きればじゅうぶんじゃないか。

それもまた、真実なのだ。きっと。

「普通の人が普通にできることを諦めろというのか」と憤る自分と、「眠って起きて、体が動くなら御の字」と思う私は、矛盾することなく、常に存在している。

で、結局どうなのだ、と問うたときに、私は、全部求めることを自分に許すことを選ぼうと思った。
スピリチュアルな世界では、「ブロックを外す」という言葉がよく使われる。
いや、スピリチュアルのみならず、ビジネスコーチングなどでも最近は使われるキーワードだ。 
幸せな人や成功者は存在する。そんな人たちは、自分はそれに値するのだと肯定できている。では私ががそれになろうとしてはいけないのだろうか。いや、いいはずだ。

最近思うのは、マインドフルネスや心理的なテクニックに偏らず、適度にスピリチュアルな方法を持つことで、苦手な場面を乗り切ることができるから、もう少しそちらも大切にしたほうがよいということ。
お守り的なものを活用したり、苦手な空間に感謝し、清めたり、ということが、案外効くのだ。私は最近、飛行機や電車で怖かった時、「この空間と仲良くしよう」と唱えて見回すことで、何度か乗り越えることができた。

おそらくそれが本当の意味で「受け入れる」ということだ。誰かに言われてすることではない。
受け入れることは、ブロックをはずし、自分の望むことを求めることと、ちゃんと両立する。というより、本当は、同じ性質の、祈りのようなものなのかもしれない。


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