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電車もブレーキ踏みたいよね

2023年6月25日(日)🌓6.9 🌞4:25-19:01
24:夏至  72:乃東枯(なつかれくさかるる)

初単独運転のちょうど一週間後、2度目の単独運転もなんとかやり遂げた。カーナビが使いこなせない以外は、なんとかなった。
次は環八を走ることにする。とはいえ最初は連れありで。
時々田舎で運転したいだけなのに、東京で練習せざるをえないのは難儀である。マイカーもないし。

私は、電車が駅の手前以外でブレーキを踏む、つまり徐行や駅ではない場所での停車がとても怖い。ブレーキにより減速すること自体が「へんな場所で車内に閉じ込められるかも」という予期不安と激しい動悸などに直結してしまっている。つまりパブロフの犬化してかれこれ14年くらいになる。

先日カーシェアでの練習後、電車で帰宅しようとしていた時(電車に乗ってクルマを借りているのですよ…練習しやすい場所から発進するために)、電車の運転手が踏んだであろうブレーキが、自分の踏んだものであるような錯覚が起きた。

一人でクルマの運転をして実感したのは、どうしていいかわからない、と思ったら、減速して止まればいい、ということだ。

おそらく慣れたドライバーは「違う、それはかえって危険」と大きな声でいうだろう。

しかし、よほどの急ブレーキでもなければそうそう追突などされないし、もともとソロソロ走っている初心者は、究極、迷ったら交差点のど真ん中にだって止まればいいのだ。
まわりは「迷惑!!」と思いつつも避けるのだし、とっさにおかしな方向にハンドルを切ったり、あわてて加速して通り抜けようとするよりは、シュンと止まったほうが事故を避けられる(急に動き出したり、あわてて方向転換するほうがはるかに危ない)。
初心者で運転に対して恐怖心の強い人に、私は言いたい。迷ったら止まれ。
運転に慣れた人、初心者で怖がっている人の気持ちがわからない人は、それでも「迷惑をかけるな」「流れに乗れ」を言ってくるだろうが、気にするな。それらは、最初に立ち塞がる巨大な恐怖心をなんとかした後に気にすることだ。

余談が長くなったが、「そりゃ、電車だってブレーキ踏みたいよね」と思ったのだった。

なぜ私は、同じ閉所でもクルマは平気で電車は怖いのか。それは、私の中にある恐怖が「自分の力でどうにもできないもの」に対するものだからだ。

これは非寛容と拙速さを意味するのかもしれない。ふだんの暮らしの微細な瞬間にも「自分の意思どおりにしたい、そうでないものを待っていられない」と思っている証拠であり、長い時間をかけて溶かしていったほうがよいことだと思う。

電車の運転手にも都合がある。その気持ちを少しでも身体感覚でつかめたのなら、クルマの練習をすることは本当に自分にとってとてもプラスなのだろう。やってよかった。

ねこが床に落ちる季節がきました

そうそう。

昨年のクリスマスイブに、「夕方、真南に輝く謎の光を追って自転車に乗る日のために」という文章を書いた。ちょっと気に入っているのでぜひ読んでほしい。

夜も寒くない季節がきたら実行にうつすぞ! と決めてから数か月たつ。
花粉や黄砂がおさまるのも待って、ふと気づく。最近あの光を見ていない。
あの光はおそらく、日没以降の時間帯にしか現れない。
もしあの光が、日没後の工業地帯などで何かの理由で灯っているのだとしたら、日没が遅い現在、日が落ちる時間にはもう工業地帯は業務時間外なのだ、仮説だけど!
が、ごくたまに、夜9時ごろにふと真南の窓を見ると、あの光がうっすら灯っていることもある。なぜか冬よりその光は弱々しい。以前、うっすらふたつ並んで灯っているのも見たことがある。
なんなんだ。謎は深まるばかり。

どうやらこれ、あの光が現れるのを待ってから、大急ぎで自転車を走らせる必要があるのかもしれない。
それとも、日の短い季節にしか現れないのだと腹を括って、肌寒い季節が訪れるのを待つしかないのかもしれない。

もしもなんらかの理由で、あの光が灯る必要が、もうあまりなくなったのならどうしよう。ううむ。もう少しデータを集めてみます。


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