ロンドンからの便り:5.長州ファイブとロンドン大学UCL
noteの「海外旅行記事まとめ」に前回の投稿「ロンドンからの便り:4.食費と外食について」が紹介されました。その結果、たった1日で、私のこれまでの投稿記事のすべてを上回るビュー数を記録しています。
この記事を、紹介記事に選んだいただいた運営メンバーの方には感謝しかありません。
最初に書きましたように、このロンドンからの便りは、読んでくれる人は、多分誰もいないだろうと思って書き始めました。
妻を亡くして鬱々とした日々を送っていて、新しい記事を書く元気がまったくでてこなかったのです。それを心配した息子が、「お父さん、過去に書いたメールなどを発掘して、それを編集してでも投稿しようよ」と声をかけてくれたのです。
鬱が再発し、そこから認知症になることを怖れていたのだと思います。
息子のアドバイスに従い、過去に書いたメールを編集はするものの、基本は再録にすぎないこの投稿を読んでくれる人がいるなんて思いもしませんでした。需要なんてないと思っていました。いわんや運営メンバーの方の目にとまるとは、奇跡です。有り難いことです。
はじめに
2013年の7月3日に、ロンドン大学UCLで開催された「長州ファイブ渡英150周年式典」に招待されました。
その時に勉強したことを友だちにメールしました。それを少しだけ編集したものです。
第5便 7月某日
先日(2013年7月3日)、ロンドン大学UCLで「長州ファイブ渡英150周年式典」がありました。それに招待されて出かけてきました。
ドレスコードがあり、ビジネススーツ着用ということで慌てました。というのは、私は、ジーンズにTシャツとセーターしか持って来ていなかったからです。靴はというと、ズックとサンダルだけを持参しました。ネクタイもなければ革靴もない状態だったので、正直参りました。
せっかく招待を受けたのですからとにかく出席しなきゃと思って頑張って、買い揃えました。
長州ファイブ
幕末の1863年に、長州藩から5人の若者が、ロンドン大学UCLに留学しにやってきました。激動の時代です。明治維新は1868年ですから、5年前の出来事です。
こちらでは、長州ファイブと言います。日本では、長州五傑と言うようです。
上の画像の中程にあるピンクの垂れ幕の部分が分かるように撮影したのが、下の写真です。
後の総理大臣になる伊藤博文、外務大臣になる井上馨、東京大学工学部などを創設し工学の父と呼ばれた山尾庸三、日本に近代的な貨幣制度をもたらし造幣の父と呼ばれた遠藤謹助、そして鉄道建設に尽力をつくした井上勝の面々です。
ロンドン大学UCL
彼ら長州ファイブが留学したロンドン大学UCL(University College London)というのは、イングランドで3番目に創設された大学です。
12世紀にオックスフォード大学が、そして、13世紀にケンブリッジ大学が創設されます。ロンドン大学UCLは、1826年、ロンドン・ユニバーシティ(London University)の名称で設立されました。
オックスフォード大学やケンブリッジ大学が、700年とか600年も前の中世にできた大学であるのに対して、ロンドン大学は19世紀にできた「新しい」大学なのです。それでオックスブリッジ(オックスフォード大学とケンブリッジ大学を一緒にした言い方)からは、「赤レンガ」大学と揶揄されていたそうです。
パックス・ブリタニカ
イギリスは、17世紀の市民革命、18世紀の産業革命を経て、国力をつけてきていました。そして、ついに19世紀になると、スペインに代わって「日の沈まない帝国」となっていました。
19世紀は、イギリスの全盛期で、20世紀初めの第一次大戦でその地位をアメリカ合衆国に譲るまでは、パックス・ブリタニカ(ローマの平和のもじりですね。イギリスの平和です。)と呼ばれるイギリスの世界覇権の時代が続くのです。
すべての人に開かれた大学を
18世紀の産業革命は、社会の風景を一変させました。
蒸気機関の発明は、工場の機械を促し、大量生産大量消費の時代をもたらします。
古色蒼然たる学問をやっているオックスフォード大学やケンブリッジ大学に対して、実学が求められていたのです。その流れの中で、ロンドンの街にふさわしい、男女の差別なく、人種の区別なく、どの階級の人も受け入れるような大学を作ろうという機運が生まれたのです。
こういう時代にふさわしい大学をということで、哲学者のジェレミー・ベンサムが高等教育の大衆化を強く唱え、「すべての人に開かれた大学を」理念にロンドン大学を開学しました。
入学の条件
当時のオックスフォード大学とケンブリッジ大学の入学条件は、男性であること、イギリス国教徒であること、貴族出身者であることという非常に差別的なものでした。
これに対して、ロンドン大学UCLは、イギリスで初めて平等な基準によって女性を受け入れ、宗教・政治思想・人種による入学差別を撤廃していたのです。
このような歴史的背景もあって、ロンドン大学UCLは、自由主義かつ平等主義の大学として知られています。
ロンドン大学UCLとダーウィン
このUCLの無宗教性は、イギリスと学問の発展にも大きな影響を与えました。
例えば、チャールズ・ダーウィンの進化論は、当時のキリスト教の考え方を真っ向から否定するものでした。キリスト教神学のための大学として設立されたオックスフォード大学やケンブリッジ大学でその進化論を発表することは許されなかったのです。したがって、ダーウィンは、当時唯一の宗教から自由であったロンドン大学UCLで、進化論についての学説を発表することができたのです。
ロンドン大学UCLが出来るまでは、イギリス国教徒でないイギリス人で大学で学びたいと思っている人は、例えば、再洗礼者の信者であれば、入学条件にイギリス国教徒であることを課していない、スコットランドのエディンバラ大学に行くしか方法がなかったのです。
19世紀当時は、エディンバラは北のアテネと呼ばれるほど自由で進取な気風がありました。世界中から学生が集まっていたのです。エディンバラ大学は、19世紀には、世界最高の大学と言われていたそうです。
輸送手段としての蒸気機関車の登場
1826年、ロンドン大学UCLは創設されたのですが、この頃(1820年代ですから今からおよそ200年前)、蒸気機関車が走るようになります。それまで交通運搬の主力は運河でしたが、そこに鉄道輸送が加わってくるのです。20世紀になってトラック輸送が台頭してくるまでは、イギリスにおける人とモノの輸送は運河と鉄道とが担っていました。
ちなみに自動車の発明は19世紀後半であり、20世紀に入り、ヘンリー・フォードが大衆車を開発することで自家用車としての車が一般化します。トラックが貨物輸送の主役となるのは、20世紀も半ばになってからのことです。つまり、第二次大戦後に、ようやくトラックによる貨物輸送が、運河や鉄道を上回るようになります。
長州ファイブと蒸気機関車
日本からの留学生、長州ファイブが何よりも圧倒されたのが、この蒸気機関車だったそうです。さらにこの蒸気機関車が、昨日今日できたものではなく、すでに40年近くも前から走っていることに衝撃を受けたのです。彼我の圧倒的な技術力の差を感じたのです。
彼我の圧倒的な技術力の差を感じたことが、まさに尊皇攘夷の急先鋒だった長州から来た若者たちをして、「攘夷」から「開国」へと舵を切らせたのだと思いました。国際社会で生き残るために必要なのは、やみくもな攘夷ではなくて、「富国強兵」なのだと悟ったのだと思います。
ロンドンで世界初の地下鉄が開通したのも、まさにこの1863年でした。長州ファイブがロンドンに着いた年です。ロンドンの地下鉄には、150年のマークが付いています。
攘夷から開国へ
中学や高校の日本史で、尊皇攘夷の薩摩と長州が幕府を倒したのに、なぜ徳川将軍家が大政奉還し、明治維新になったら、手のひらを返したように開国したのかについて、全然腑に落ちませんでした。
今回、この長州ファイブの式典に参加し、その後少しだけ勉強することで、攘夷から開国へと軌道を修正するのに、この長州ファイブや、この2年後にやってくる薩摩スチューデントたちの働きが大きかったのではないかと推測したのでした。
最後に
ロンドン大学UCLの中庭に、長州ファイブと薩摩スチューデントの石碑があります。もちろんその石碑を建てようと企画し、お金を集めたのは、日本人ですが、それをUCLの中庭に一角に建てることを許可した大学当局の決断に頭が下がります。
ロンドン大学UCLの開かれた大学という理念を体現したものだと感じるからです。
長州ファイブ150年記念式典は、この石碑の前にテントを張って開催されました。
本日も最後まで読んでいただき有難うございました。