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「飛地山」の地名由来について、興味深い地域の由来真実はどこに?

その地域に付けられた名前の由来は面白い。
現代において長く伝えられた土地の由来や、噂として広まっている様々な情報が絡み合って事実とは違った物語、さらに歪められて物語が伝えられ、一人歩きしている地域がある。

その興味深い一例として「飛地山」という地域の名称である。
「飛地山」は千葉県流山市にある地域です。
今回はこの「飛地山」に焦点を絞って様々な話題と絡み合わせて「飛地山」の名称と噂の一人歩きや様々な物語を例として紹介しようと思います。
収集した情報や記事を引用しながら情報を整理していきます。


1.「飛地山」という地域について

まず「飛地山」という地域について、どんな地域であるか説明したい。「飛地山」は千葉県流山市という場所にあります。千葉県の北西部にあり、埼玉県と千葉県の丁度県境あたりに位置する地域です。

参考:【流山市の位置と交通】

人口は令和2年時点で199,849人で千葉県内で7位と千葉県内の市では中心部(千葉市)からの距離や市の面積と比べて比較的人口は多いと感じられる(県内人口密度6位)さらに、一番の注目すべきは人口の流入度であり、これは令和2年時点で1位の14.61%と日本全体での人口減少があるにも関わらず県内で一番注目度の高い地域といっても過言ではないだろう。

参考:【千葉県流山市の人口・財政・選挙・議員報酬】

流山市は「都心から一番近い森のまち」をテーマとして、緑の多い良質な住環境と充実した子育て・教育環境が揃った、住みやすく・育てやすい街を目指している市で都心や他県へのアクセスが良い地域との情報も住宅情報に掲載されていました。
参考:【子育て世代を中心に転入者増加中の街・流山市の住みやすさや治安は?】

上記の情報から、千葉県流山市「飛地山」という地域は現在、居住区としての関心度が高く、他県や都心部へのアクセスが良い反面自然が多く住みやすい地域であったり、もしくは、最近開発されはじめて注目度が高まっている地域であるということも考えられる。

    2.「飛地山」興味深い話題について

現状、上記の情報などをふまえて「飛地山」の地域イメージを言葉として表現するならば、「千葉県内で最近人が集まっている地域」といえるだろう。上記データだけをみると、「飛地山」がある流山市はとても良いイメージで盛り上がっている地域と考えることが出来るだろう。しかし、興味深いのはその流山市にある「飛地山」という場所に関する話題である。

「飛地山」に関して調べると、「飛地山」の由来を主軸の話題とした情報が溢れている。基本的に情報は歴史を中心に描かれているが、中にはデマが広がっているという情報が多くあり、デマ情報を改めるために市を巻き込んで調査までされ最終的に報告まで挙げられているのです。

風評被害といわれるものだと思いますが、実際の「飛地山」の由来や過去の歴史を正しく後世に伝えるためにも、これだけ注目のある地域に対して、今後その土地に住む人が誤解したまま住んでしまうことを避けるためにも、私はこのようなデマ情報の拡散や発信元が正確でないものを信じて拡散する行為は良くないのではないかと考える。しかし、その反面実際にそのようなデマ情報が多数集まっていると、その情報が事実であるように認識してしまうという気持ちもわかる。

地域の情報発信を今回は自分の意見をなるべく控えながら、情報ソースをまとめながら本来の「飛地山」の由来について考えていきたい。

   3.「飛地山」のデマとは一体何か?

では、「飛地山」に関するデマとは一体なんなのか?改めて情報を整理しながら考えていきたい。

一番情報ソースとして正確なところから整理をしていきたい。「流山市街づくり委員会会議録」という市職員も参加があったと思われる議事録を元に、まず「飛地山」に関して何がデマとして問題となっているか確認していきたい。

参考:【流山市街づくり委員会会議録】

この会議録は流山市の開発をするために都市開発をするにあたっての議題として、「飛地山」のデマ情報が発信されているのが問題であるという主張を建設者側が示している。重要と思われる箇所を抜粋する。

上記会議録引用▽
引用①本件開発にあたって、非常にインターネットなどにある、当該地が処刑場であったとか、首切り場 であるとかといった掲載で、事業主は融資の段階で非常に苦労をしました。
引用②「構想に基づく説明会を3回開催するも、条例の 規定範囲外の大勢を占める方々から、「人骨が出る」「処刑場の跡地だ」「中止看板を出す」「差し止め 請求をする」といった威圧的な発言を繰り返し受けました。」
と前置きをしたうえで業者はそのごこのように説明している。
引用③
昨年、埋蔵文化財に係る市の試掘調査の実施をいたしました。その結果を専門家に分析してもらい ました。風評に関わる事項は学術的根拠のない流説であるとわかりました。試掘結果を市役所の博物 館学芸員にお願いし、現地説明会を市民の皆様に呼びかけたところ20数名の方々に御同席を頂き、 住居跡地などは出ましたが、処刑跡地、人骨などは出ていないとはっきり説明して頂き、記録にも残 っております。

このように会議録に記されていたということは、①「飛地山」という地域においてインターネットにかなり過激な掲載があったということ。さらに②現地に住む人がこの掲載を信用していたこと。しかし、③実際に調査を実施しても掲載されているような事実の根拠がでてこないことが裏付けられている。

調査が入り、立証する必要があるほど「飛地山」に関する過激な話題が地域の人にまで浸透していたということはとても興味深い状態である。
デマを拡散することは好ましくないため、私は該当記事に関して取り上げることをしませんが、どんな情報があったのか次の項目で説明していきたい。

   4.「飛地山」に関するウワサ

ここでは箇条書きに「飛地山」のデマと思われる過激な内容についてまとめてみる。

  • 飛地山は昔処刑場があった。

  • 罪人の首が切られたりしていた。祖父は処刑を見に行っていた(ブログ記事より)。

  • 飛地山は飛血山であった。(処刑場からの由来とされている)

  • 近藤勇が処刑されていた。

  • ここは心霊スポットである。

なかなか過激でセンシティブな発信であり、事実ならば敬遠してしまうような情報が多々散見された。

心霊スポットに関しては、おおよそ根拠なく面白おかしく書かれたものであることが伺えるので、特に言及することは控えたい。しかし、他の項目についてはあらためて、その他情報と照らし合わせながら、「飛地山」について考えていきたい。

   5.「飛地山」に関する歴史事実

なぜこんなに禍々しい噂が立っているのか?興味深い地域です。さらに「近藤勇」など歴史的偉人が出てくることでさらに聞き手が信じてしまいそうな噂です。これは、「流山市」という地域が歴史と縁の深い地域であるからこそ起こってしまった悲劇なのではないかと私は考えます。

そのため、ここからは改めて飛地山に関する歴史を調べたものを抜粋し、箇条書きにまとめていく。詳細の記事は下記ホームページで改めて確認すると知識も深まり面白いのでおすすめする。

参考:【新選組と流山】【新選組観光ナビ】【近藤勇屋敷跡】


①流山市は、新選組が幕末に敗走して拠点を置いた場所である。
流山は、近藤勇が最後に陣営を敷き、ついに自首した地である。近藤勇が流山を選んだ理由はよくわかっていないが、最終目的地である会津へ向かうため、なるべく官軍の手薄な道を選んで途中、分散した同志を集め、新部隊を編成する目的で陣を敷いたと考えられている。


②「飛地山」は砲台を置く高台がおかれた場所であった。
1868年4月2日、流山に来た新選組は、本隊が現在の近藤勇本陣跡(永岡家)に入り、残りの隊士は光明院・流山寺などに分宿しました。流山に来る前の五兵衛新田(足立区綾瀬)に滞在していた時、新選組には近藤隼雄率いる歩兵隊が合流していました。この歩兵隊は、砲台を置くのに適した高台だった飛地山に大砲を置きます。

③「飛地山」から新政府軍へ大砲が撃たれた。
実際に反撃もされているが、途中で争いをやめている。
新政府軍の本隊が渡ってきて、3手に別れて近藤勇の本陣に迫ります。
飛地山の歩兵隊から大砲が5,6発撃たれました。
新政府軍も一斉に飛地山の方に射撃しました。
新政府軍の別の隊が、近藤勇たちの本陣前で菊の御旗(天皇家のご紋)を振ったために、歩兵隊は反撃をやめます。

④近藤勇は「飛地山」で死んでない。
板橋
宿平尾の一里塚で、1868年4月25日、近藤勇は斬首されます。

ここからは明治以降の流山市の歴史を確認してみる。
参考:【ウィキペディア「流山市」】

下総国に属する。江戸時代は、軍馬を養う小金牧の一部として大半が天領とされたほか、駿河国田中藩の飛地もあった。18世紀頃から江戸川の河川舟運のための河岸ができ、みりんの製造で栄えた。幕末期には新選組が本陣を置いたが、新政府軍に包囲されたため隊長の近藤勇が出頭し、盟友土方歳三との離別の地となった。

下記サイトにも参考に読むと流山市の近大の歴史について記されている。
参考:【流山村、町から市への変貌

明治時代以降、河川のインフラが整備され比較的栄えた地域であることが伺えます。

   6.「飛地山」歴史から考えるデマ考察

デマに関して気になった箇所が何点かある。

特に気になったのは、「飛地山」の処刑場に関する根拠の発信である。
これは、あるブログ記事に書かれていたデマと考えられる発信である。

  • 「私の祖父は処刑場があるというと、よく見に行っていたそうですよ明治40年ころまで」

  • 「高さ三メートルぐらいの太いケヤキの棒が立っていたのを覚えてますよ。そこに縛り付けて下から槍で突いたんでしょうね。突くだけでなく首を斬ったりもしました。」

書かれていたブログの話が事実であるならば、明治40年である、1907年まで飛地山では刑場で首切りなどが行われていたという話になる。

ただし、歴史から考えてみると私はこの記事に疑問を感じてしまう。
日本の公開処刑を調べてみると1870年代には死刑執行の公開は廃止されていたように考えられる。
下記参考程度に日本の公開処刑の歴史について引用させてもらう。
参考:【公開処刑Wikipedia】

明治時代になってからは、1868年(明治元年)10月30日に出された行政官布により、磔は君父を殺した大逆に限定し、火罪は廃止された。そして、1870年(明治3年)12月20日に制定頒布した新律綱領により、死刑執行方法が絞首刑・斬首刑・梟示(獄門に相当)の3種類に限定される形で、死刑執行の公開が廃止された。その間にも、斬首刑の公開が行われる例があった(1876年(明治9年)5月22日に横浜で丁稚殺しの罪で斬首刑の執行がなされた際、沢山の見物人が刑場に集まっている)。

その後、1879年(明治12年)には梟示も廃止される。
しかしながら、旧刑法施行後の1886年(明治19年)12月に「青森の亭主殺し」事件の加害者である小山内スミと小野長之助の公開斬首刑が青森県弘前市の青森監獄前で行われた。この時2人の斬首刑に兼平巡査が斬首刑の執行人として、死刑執行者付添役に森矯(東奥義塾教師)がそれぞれの任を果したと言われている。しかし、このことが事実である場合、この死刑執行は事実上の斬首刑の最後であると共に、官憲による日本国内における一般刑法犯に対する最後の非合法(当時の旧刑法では、非公開絞首刑のみ。)の死刑執行かつ第3者の観衆らの目前に行われた公開斬首刑であると言わざる得なくなる。

他方、明治時代には、検事の許可の元で死刑執行を第三者に観覧した例もある(1896年(明治29年)9月15日に北海道根室の刑場で、斎藤甚吉の死刑執行を見届けようと30人が参観している[6]。更に11年前の1885年[明治18年]7月27日には、赤井景韶[罪状:冤罪事件である「高田事件」により収監。その後脱獄し、逃走中の所を目撃した人力車夫を殺害]の執行を旧自由党党員の大井憲太郎を始め100余名が市ヶ谷監獄で参観している。)

実際に公開処刑は明治時代にも行われていたが、公には禁止されていたという事実である。

さらに歴史的事実として引用すると大日本帝国憲法は1889年に公布され、三権分立が明確化され、ある程度法整備が進んでいたことが考えられる。
参考:【Wikipedia大日本帝国憲法】

もう1点、歴史的事実を追加をしておくと処刑場として江戸時代以降有名な場所を明記されていた記事があったので付け加える。

参考:【処刑場も史跡!南千住回向院は歴史を揺るがした有名人の名所】

小塚原刑場は、江戸時代に大和田刑場、鈴ヶ森刑場とともに三大刑場と言われた処刑場で、明治初年に廃止されるまで、ここで処刑された人は約20万人と云われています。

このように公開処刑や処刑場の歴史から見ても明治40年まで「飛地山」で処刑場があり実施されていた、という伝話に事実を感じることができない。

また、このブログは2013年に記されたであるため2023年現代から10年差し引いても明治40年は106年前である。ブログを遡ると著者は現在40代のようであるが、時系列を追っても著者の祖父が1907年前後に処刑を見物できる年齢には計算上難しいように感じられる。(大正初期生まれ前後が現実的な数字であるように考える。これはあくまでもブログ記事から見た推測であるため確定した事実ではない。)

また情報源が祖父でしかない所も審議として正しい情報と信じるのは難しい。

   7.「飛地山」の本来の由来とは何か

では実際の「飛地山」とは何が由来なのか?信頼できそうな情報ソースから引用させてもらう。
参考:【新選組観光ナビ】

飛地山は、田中藩の飛び地領を管理する役所があったために飛地山と呼ばれていました。加村にあったため加村山とも呼ばれています。
田中藩の陣屋は、ここから北の、現在流山市立博物館や図書館があるあたりにありました。

飛び地=飛地になったというのが本来の由来のようです。かなりあっさりした由来です。

深い歴史や興味深いキーワードからそれらしいストーリーが作られてしまったのではないかと感じられる程あっさりした由来だ。

   8.「飛地山」歴史の伝話により事実が歪む?

私は「飛地山」に関して意図的にデマが流されたというよりは、日本の代表的な歴史ある土地であるからこそ起こってしまった悲劇なのではないかと考える。

様々な事象が混ざり合いこの「飛地山」という名前の由来にすごいストーリー性があるのではないか?という聴衆たちの期待やそれを面白おかしく吹聴した結果、事実のように語り継がれ、さらに、心霊スポットなどのオカルト的な発信がされ話題になってしまった地域なのではないかと思いました。

  9.「飛地山」だけではない風評被害の現実

心霊スポットや風評被害は酷くなるとただの話題では終わりません。
裁判沙汰になった地域の例がいくつかあります。下記に風評被害により起こった事件や話題をまとめました。


  10.「飛地山」は歴史ロマンのある興味深い土地

私はこの「飛地山」デマ話題に関して、最終的に飛地山という土地が「歴史ロマン」に溢れた土地である古くから栄え続けている土地と結論付けたい。

デマがある、話題が増える土地ということは、裏を返せば書き手、読み手どちらからも興味関心、話題の尽きない土地であるということが伺える。
その背景に飛地山の歴史が大きく影響しているように感じられました。

そして、現代でも変わらず人が集まってきている土地であることも感じられました。

このような興味深い土地が人々に長く愛される土地として今後も続いて欲しいと私は考える。最近は、私人へのネット書き込み誹謗中傷などが話題になっているが、このような土地への風評被害的なネット書き込みも今後どんどん話題になるのではないかと考える。だからこそ、読み手、発信者も情報が真実になりかねない現代だからこそ気を付けるべきだ。

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