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【超ショートショート】本が読みたい

 家で本を読めない日がある。

 ソファに腰を下ろして本を開いた途端、あのヨーグルトの消費期限いつだったっけ? 気になって立ち上がり冷蔵庫を開ける。風の音が強くなる。洗濯物は早く取り込んだほうがいいかしら、と窓の外をうかがう。ふと床に目を落とすとホコリが。この前掃除したのは……指折り数える。

 ひとり暮らしで誰の邪魔も入らないのに、よりにもよって自分の思考が邪魔をするなんて。自宅は意外と気の散る要素が多い。最後の約70ページ、できれば今日中に読み切りたい。そんな日は本と財布とスマホをお気に入りのずた袋(というにはオシャレすぎるエコバッグ)に突っ込んで家を出る。

 向かったのは読書ができるカフェ。というか、読書することに特化したカフェ。店内は私語禁止。店員さんも必要最小限しか話さない。パソコンもペンも使用できないので、必然的に仕事も勉強も禁止。本当に本が読みたい時にはうってつけのカフェで、私は重宝している。

 10席足らずの小さな店内に先客が3人ほど。店の趣旨を理解している客しか来ないのでみんな静かに本を読んでいる。それだけではない。なんというか「存在のうるささ」も消してくれている。他の人に関心を向けるとか、自分が人からどう見られているか気にする時とかによくある、口を開かなくても「うるさい」と感じる、あの感じがない。実はこれがなかなか快適でいい。

 私はサンドウィッチと紅茶を注文して、ずた袋から静かに本を取り出す。そして、私も存在の出力をなるべく下げて、本と向き合う。本だけに向き合う。

 あの人の不在をとてつもなく寂しく感じる、そんな日は読書に集中したい。私にとって本を読むことは一種の逃げだ。現実逃避と言ってもいい。

 運ばれてきたサンドウィッチを食べながらポットの紅茶もそっと注ぐ。どちらも美味しい。そしてさらに私の読書の深度は増していく。

 今読んでいるのはとある紀行文集。行ったことのあるヨーロッパの街の描写や言葉が出てくると妙な親近感がわく。私の心は容易くかの街に飛ぶ。ああ、今の私には旅が足りていない。旅をしたい。

 行きたい場所がある。あの人と行きたかった。あの人としか行きたくなかった。私の願いはまだ叶う余地があるだろうか……

 ようやく、追いかけてきた寂しさを振り切れたと思ったのに、また追いつかれてしまったみたい。仕方がない。この寂しさはしばらく抱えていくことになるのだろう。

 とはいえ、紀行文集は楽しく読み終えた。次は何を読もう。家に帰って積読の山から元気が出そうなシスターフッド味あふれるミステリーを選んだ。

 今度は確実に寂しさから逃げ切れるように。

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