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恋人の卒アルで元カノと初対面

何の予定もない日曜日。デスク周りの整理をしている彼女が、自身の卒業アルバムを眺めていた。

「見たい」と私が言うと、彼女は照れくさそうに見せてくれた。集合写真の真ん中で、爽やかに笑う彼女。校門の門柱にあぐらをかいて、ワルそうな雰囲気の彼女。部活動中の真剣な表情。文化祭だろうか、サングラスをかけて何だか調子づいている姿。私の知らない時代の彼女を、新鮮な気持ちで眺める。

ページをめくりながら、もし私と彼女がクラスメイトだったら、はたして仲良くなれただろうかと想像してみる。

彼女は私より年が5個うえなので、高校の入学・卒業のタイミングはどうしたって被らない。出身地だって違う。だからifルートの話だ。

もし、私と彼女が同じ高校に入学して、クラスメイトとして出会ったら───たぶん、友達にすらなれないだろう。彼女はサッカー部のお調子者。一方、私は毎日クラシック音楽漬けの文化系人間。まるで系統が違う。委員会や行事が絡むような事務的な会話はするかもしれないけど、きっと同じグループにはいないと思う。

それなのに歳を重ねた今、お互い仲良くやれているのは、私も彼女も「高校時代と現在とで、人格がかなり違うから」だ。

高校生の頃、私はひどくプライドが高く、だからこそ傷付きやすかった。病んでいる時期も長かった。けれども今は「学びて然る後に足らざるを知る」というか、己の無知を自覚できるようになったし、だいぶ楽観的になった。

一方、お調子者だった彼女は、高校時代に初めてできた恋人とのいざこざで人間不信に。その後も、さまざまな障壁にぶち当たり、自由人から物憂げなリアニストへとメタモルフォーゼした。

彼女を懐疑的な人間に変えた張本人である、元カノの顔が見たい。彼女にねだると、少し気まずそうな顔を見せてから、とある人物を指差した。これが、例の。

何というか、ああ、生きていたんだな、と思った。写真を見るまで、私にとって彼女の元カノは幽霊みたいな存在だった。得体が知れなくて、そして今はもう私たちの世界にはいない人。そんな風に、元カノをどこかバーチャルな存在として捉えていた節がある。

元カノの顔を見て、ちゃんと存在していたんだな、と初めて実感した。彼女と同じように、勉強して、部活を頑張って、ご飯を食べて、恋をして……生きていたんだよな、当たり前だけど。眺めていると、古典文学を読むような気持ちになり、彼女の過去も、そこにいたいろんな人たちのことも尊く思えた。


私は、メタモルフォーゼ後の彼女の人格が大好きだ。たまに見せる自由人の名残りも可愛らしく感じる。彼女を変えたのが元カノだと考えると、少しだけ感謝のような気持ちが芽生えた。故人だと思っていてごめんね、彼女と出逢ってくれてありがとう。


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