ロノミーの湖水(三十四)

 茜色と呼ぶにはまだ色の浅い夕焼けが、木々の向こうに広がっている。その手前、ブロハニ一族が作った小道の奥には、何やら湖としか考えられない水域が、その夕焼けを反射していた。
 しかし、この世界に帰還したニルはそれに見向きもせず、まず、ルヴォワの幻の死体をゆっくりと道の上に寝かせ、次に、道の脇の地面を思い切りジャガの杖で叩いた。ニューレイ荒野の時と同様、凄まじい音と共に大地が揺れ、その衝撃の反動でニルは高く宙に舞い上がった。そうして、女性一人を埋葬するには十分な窪みが出来上がった。着地後に確認すると、ジャガの杖は、への字にへし折れていた。
 ニルは、幻の死体を再び抱きかかえ、その窪みに降ろした。その後、周囲の土を寄せ集めて死体を埋葬したら、近くに群生していた野花を一本だけ摘んで、それを真上に献花し、ルヴォワの幻を弔った。
満足かい?
 上空から、ロイが降下してきた。
「ロイ君……。ああ、満足だよ。君はどうやってここまで来たの?」
「あの場所から飛んできただけだよ」
 着地すると、ロイはそう答えた。
「そんなに素早く飛行できるだなんて。それなら僕も連れて来てくれれば良かったのに」
「ごめんね。そこまで親切な妖精じゃないのさ、僕は」
「知ってるよ。どっちにしろ、ロイ君には感謝もしてる。あの道を通ったおかげで、随分時間を短縮できた」
「どういたしまして。でも、感謝なら、僕の方こそしてる」
「どうして?」
 ロイは、両手をオーケストラの指揮者のように広げた。
「僕に、ひとまずの生きる目標を与えてくれた」
「どういうこと?」
「僕は、どうしても、というものを知ってみたくなった」
「恋を?」
「そう。僕は大陸に生まれ落ちてから間も無くこのティブ島に移り住み、以後何百年もの間、この大きな島に住んできた。前にも言ったけど、僕は僕と同じ種族の者と未だかつて出会ったことがない。探すのさ。同じ種族の者を。そのために世界中を旅する」
「恋人を探す旅か……。それも世界中を。素敵だね」
「ありがとう。僕は、何でも知ってる気になっていた。そして、人間より遥かに寿命の長い僕は、退屈してた。どうせ、この島を出ても出なくても同じだと思ってたけど、ようやく、この島を出る理由ができた。君のおかげさ」
「役に立てたなら、嬉しいよ」
「……ところで、君に、一つ、質問がある」
「何だい?」
「君は、『馬鹿げてる』と言った。僕も、『順位なんて付けられない』と言った。しかし、ある状況において、もし、絶対に、ナリン・ザイモラとルヴォワ・コンフォのどちらかの命しか選べなくなったとして、じゃあ、君はどうするんだい……?
 ニルは、何も答えられずに黙った。その場で直ちにその答えを考えたが、全く何も思い浮かばなかった。
「意地悪な問いかもしれないけどね。そして、それに答えられないのは、当然のことだと思うよ」
「……そういうことを、考えたこともなかった。考えておくよ」
「考える度に、僕のことを思い出してくれるなら、嬉しいな。……さて、それじゃあ、早速僕は行くよ。もしまた会う機会があるなら、その時はよろしくね」
「うん!」
 返事をするニルに対して、一瞬微笑んだロイは、すぐさま流れ星のように飛んでいき、瞬く間に見えなくなった——。

 目の前に、細い道がある。部分的に近道をしたが、入口から川を挟んでずっと続く一本道の、おそらくは終点の近くだ。奥に、夕陽の光を反射する巨大な水域の一部が、木や草や葉の隙間から、はっきりと見える。どう考えても、それはロノミー湖だ。
 ニルはしゃがみ込み、リュックサックの中をまさぐった。中には、ロノミーの湖水を入れるための大きめの瓶が、空っぽのまま入っていた。取り出して、それを眺める。様々な角度からそれを眺めて、満足したら、それを再びリュックに入れた。
 ロノミーの湖水を手に入れることへの期待感で胸をいっぱいにしたニルは、同時に、ライザの玉を湖に投げ入れ、呪文を唱えるという、もう一つの使命を忘れていなかった。それは世界を救う使命だ。期待で膨らみつつも緩んだニルの気持ちを、そのもう一つの使命が引き締めた。
「兄ちゃん、聞こえるかい?」
 左耳に、メルの声が届いた。
「ああ、聞こえる」
「シャクネツグモの時みたいに、ついさっきまで何も見えなかった……。何があったの?」
「よくわからない世界で、よくわからない試練を受けてた」
「なんだい、それ?」
「説明するのも嫌だよ」
「それで、その試練は突破したの?」
「なんとか。もう二度とあんな思いはご免だ」
「辛い試練だったんだね。ところで、兄ちゃん、兄ちゃんの視界にあるあの湖のようなものは、まさか——」
「間違いない、ロノミー湖だ」
 その湖の名前を口にした瞬間、ニルの全身に異様なまでの力がみなぎってきた。ロフォンの鏡で通話をするために左耳にあてた手を放し、ニルは居ても立っても居られず、その湖に向かって走り出していた。
 湖に、近づく。どんどん近づく。周囲の木々や草花を通り過ぎる。視界の中で、湖が占める割合が増す。増してゆく。更に増える。それは、きらきらと、夕焼けを反射し続けている。近づくにつれ、湖は想像以上に大きいことがわかる。今まで見たことのないほどの大きな水たまり。ニルは心躍らせた。どきどきとした心地の良い動悸が止まらない。走り続けたニルは、やがて、森林を抜け、とうとうロノミー湖のほとりへと到達した。
「やっとたどり着いた……」
 ニルは思わずそう呟いた。ロノミー湖は、ニルの想像の何十倍もの大きさだった。
 ニルは茫然とした。目の前の光景が、まるで現実ではない夢の中の光景であるかのように錯覚した。少しの間、その状態は続いた。やがて我に返ると、ニルは一歩ずつ、湖に向かって歩き出した。
 そよ風すら吹いていない。空気は、やや湿っている感じがする。湖は、あまりに大きく、あまりに美しかった。
ごきげんよう
 ニルの背後から、男性らしき何者かの声が聞こえた。
「誰?」
 警戒しつつ、振り向きざまにニルはそう言った。そこには、ハットを被った健康的な青年が、優しげな笑顔で立っていた。
「君も、ロノミーの湖水を採りにきたのかい?」
 その青年は、ニルに、そう問いかけた。

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