ロノミーの湖水(三十三)

「うそ……。ニル君、私の首、触りたいって思ってくれてるの……?」
 彼女は驚いた顔をして顔を赤らめていた。
「はい。触らせてくれますか?」
 ニルは、彼女に対してそう答えつつも、決して彼女の瞳に焦点を合わせずにいた。彼女の目を見るふりをしながら、何もない空間を見つめていた。
「嬉しい……。いいよ、ニル君」
 彼女は目を瞑り、自らの首を差し出すように顎を上げてそのままニルに委ねた。
 圧倒的な躊躇。ニルは何もできずにただ脂汗を顔面に滲ませていた。自分は、今から、目の前のこの女性を殺す絞め殺す。その目の前の女性がたとえロイが言うように仮の肉体を持った幻に過ぎないとしても、そもそもそれを容易に信じられるわけもなく、自分には到底できっこないと、一人絶望した。
 右手と左手を同時に彼女の首へ伸ばそうとする。しかしそれらはぴくりと、ほんのちょっと動くのみで止まり、ニルはただ、自分の心臓の鼓動の高まりを淡々と感じ取っていた。
「どうしたの……?」
 彼女は片目を少しだけ開き、ニルに尋ねた。
「なんでもないです。ただ、ルヴォワさんの体に触るのに緊張しちゃって」
 ニルはいつも正直な少年だったが、今に限り、いくらでも嘘がつけた。
「あは、ニル君、可愛い」
 彼女は再びまぶたを閉じた。
 ニルはルヴォワよりも背が高い。見下ろす形で彼女の首のみを見つめるニルは、その、文字通り手を伸ばせば届く距離にあるそれを、果てしなく遠いもののように感じていた。連続する躊躇い。止まらぬ葛藤。頭がおかしくなりそうだった。今ですらそうなのだから、もしその行為——つまり彼女を絞殺する最中や、それが完了した時には、クルワセガニの毒の効果など凌駕するほどに気が狂ってしまうのではないかとニルは思った。
 しかし、このままだとロノミー湖に辿り着けないことは、はっきりとわかっていた。脱落することを選ぶことなどあり得ない。それを選べば、ここに来る前の全ての苦労や、色々な人達の協力が、風の前の塵のように一瞬でふいになる。
 唐突に、ニルは両手をゆっくりと彼女の首目掛けて動かした。それは、これまでの冒険で振り絞ったあらゆる勇気を上回る勇気が必要となる行為だった。
 ぴと、と、ニルの両手全ての指の先が彼女の細い首に触れた。そこにはまず体温があった。そして微かに感じられる動脈の脈動があった。その脈動は、通常よりも強いもののように思えた。顔どうしを向き合わせているからわかるが、息も少しだけ荒くなっている。頬は、依然として少し赤い。ニルは再度頭の中で確認した。この女性は飽くまで幻だということを。
「うふ、くすぐったいよ、ニル君」
 そう言う彼女はまだ目を瞑ったままだった。
「ごめんなさい」
 ニルはそう言って、指先ではなく手のひらで彼女の細い首の全体を触れ直した。
 すっぽりと、彼女の首はニルの両手に収まってしまった。これでは、思い切り力を込めさえすれば、いとも簡単に彼女を絞め殺せてしまうではないかと、ニルは愕然とした。
「ニル君、普段は畑仕事してるんだもんね。手のひらが硬くてざらざらしてる……」
「ごめんなさい。気持ち悪いですよね」
「ううん。気持ちいいよ」
 目を瞑ったままの彼女は、どこか幸せそうな表情をしていた。ニルは、そんな表情を見たくなかったし、こんな会話もしたくなかった。
 ニルの動悸はますます激しくなる。彼女の動脈の流れもまた、拍動を強めている。そのすれ違う二つのリズムは、無限大とも言えるニルの張り詰めた感情を、無情に増長させていた。
 これは幻だ、これは幻なんだ——頭の中で必死に唱え、繰り返す。しかし、目を瞑る彼女の表情や、彼女の発言一つ一つ、それらの内容や口調、言い回しまで、その全てがルヴォワその人だ。だからこそ頭の中で繰り返す。目の前の女性は飽くまで幻なのだと。
「ニル君の手、あったかいね」
 その言葉を聞いた瞬間だった。目の前の女性は幻だという一つの思念だけが延々と巡っているニルの心に、その言葉が針となり、刺激を与えた。なぜその言葉が針となり得たのか。それは、ルヴォワの幻が、今、夢を見ているような状態にあることが重要な要素として挙げられる。つまり、その発せられた言葉そのものや発音のどこかに、通常のルヴォワのそれらとの何らかの僅かな差異を、張り詰めたニルの心が、本人の自覚とは程遠い部分で、繊細に感じ取ったためと言える。要するに、その言葉そのものや言い方が、どこかルヴォワらしくなかった。
 針は、膨れ上がった動脈の血管を刺し、ほんの小さな穴を空けた。そこから、気が狂うほどに大量の血液がほとばしった。
 それは殺意ではなかった。貧血が起こしたある種の誤作動のようなものだった。ニルは、全力ではないが、彼女の首を掴むその手に力を込めた。その行為に至ることに、いずれにせよ成功した。通常の精神状態ではもちろんなかった。その行為を続けながらも、頭の中は、彼女が幻に過ぎないという一つの単純な思考で埋まっていた。
 彼女はまぶたを大きく開けていた。円く、大きな瞳で、ニルの目を見つめていた。ニルは、その美しい瞳を直視していた。そのことが可能だった。なぜなら、気が狂っていたからだ。
 頭がおかしくなっていた。既に正気ではなかったのだ。しかしながら、これ以上力を込めることは決してできなかった。鎖に繋がれた番犬のように、いかに猛ろうとも、その鎖の長さ以上の距離を、前に進めなかった。
 やがてその鎖の長さに慣れる。自分の動ける円範囲の半径を知る。すると不思議と、少しだけ冷静になれる。ある程度は落ち着ける。その精神状態の変化が、ニルにあることを気付かせる。
 彼女が全くの無抵抗だということをだ。
 ニルの目の裏側から涙が溢れた。
 確かに、彼女は今、夢を見ているような状態にある。そうだとしても、少なくともルヴォワは夢の中でニルに首を絞められても抵抗しないということがわかる。しかも、ニルは今、全力で力を込めているわけではない。このままその行為を続けても、彼女が窒息死するどころか、気絶するに至るまでにすら相当な時間を要する。下手すれば、ただ苦しいのみで、気を失うことすらないかもしれない。つまり、いかにルヴォワが女性であろうとも、抵抗しようと思えばできる状況にあるのだ。
 しかし、彼女は何もしない。厳密に言えば、ただ真っ直ぐにニルの瞳を見つめる以外のことをしない。その事実が、ニルの動悸をさらに強めることは容易だった。爆発しそうな心臓。それを抱えながらも、両腕の力は緩めない。いや、もはや緩められない。なぜなら、その彼女の眼差しが、その彼女の無抵抗という行為が、気の狂ったニルに出鱈目に、まるで応援するかのように働きかけ、ニルの決意——必ずこの試練を突破すること、必ずロノミーの湖水を採って帰ることの決意を燃え上がらせたからである。
「いいよ……」
 掠れた声で彼女は確かにそう言った。
 それは、燃え上がったニルの決意の炎を、一瞬で鎮火させるのに余りにも十分な一言だった。
 代わりに残されたのは、焼け焦げた無惨な罪悪感の灰燼だった。
 全身が、ただの傀儡に成り変わったかのように脱力を始めようとした。まず膝が折れ、彼女に対し跪く恰好になった。両手で彼女の首だけは確かに掴んでいた。その後、その両手の握力さえもが消失を開始する直前、それを防いだのもまた、彼女だった。
 彼女の、苦しみの中にもある毅然とした眼差し。表情。自らを殺そうとする者に対する恐怖や嫌悪は微塵もない。かと言って、その者を先ほどの発言通り許可や承認こそすれど、赦すわけでも決してない。夢の中にいるような状態にある彼女は、既にニルに殺されることを理由もわからぬままに受け入れ、覚悟していた。
 それは、彼女を殺し、この試練を打破するためのと、それをやり遂げなければならないことへの重圧を、同時にニルに与えた。
 少しだけ膝を震わせながら、ニルはゆっくりと再び立ち上がった。心臓の鼓動の速さは変わらなかった。顔の汗は増えていた。首を掴み続けている両手は、感覚が麻痺しているかのようだった。
 そうして、は、音も立てずに千切れた。
 先ほどとは違う。狂気だけに操られているわけではない。しかし、理性が完全に支配しているわけでもない。狂ってるわけでもなく、冷静であるとも言えない。確かなのは、大量の汗に紛れた数滴のだけだ。
 なぜこんな苦しい思い、辛い思いをしなければならないのだろうと、むしろ笑ってしまいたいくらいだ。狂ったように笑いたい。だがそれはできない。両手にどんどん力を込める。彼女の表情が、更に苦しそうになる。もう嫌だ。やめたい。何を? 首を絞めることを。しかしそれは、この冒険をやめることをも意味する。脱落を選んだら、この島のどこに飛ばされるんだろう。南の方かな、北の方かな。それとも西? 東? 丁度、アイムアの森のロノミー湖のほとりだったら運がいいな。そんなわけないか——そのようなことを考えて、ニルは、笑った。声を上げて笑った。俯いて、よだれすら無様に垂らしながら、ニルは笑いが止まらなくなった。首を締めるための力は緩めなかった。それでもニルは笑い続けた。もはや、何に対して笑っているのかもわからなくなった。笑えば笑うほど、笑いは増幅していった。笑い過ぎて、咳き込んだ後、ふと顔を上げて彼女の顔を見ると、彼女は口から泡を吹いて白目を剥いていた。
「ルヴォワさん……!」
 真っ青な顔で即座にそう言うと、両手を放した。途端に、彼女は、ばたんと地面に倒れた。
 ぽつり、ぽつりと、雨が降り出した。降り出してすぐに、雨脚は強まった。
おめでとう
 ロイがニルの頭に自らの声を届けた。
「雨が降り出したのは、幻が死んだことの合図だ。まもなく、目の前に扉が開かれるよ」
 ニルは聞いてなどいなかった。両膝と両手を地面に付け、無言で、彼女の顔を見つめていた。
 やがて、ニルがこれまで進んできた方向の先、岩壁と岩壁の狭間の、何もない空間に、楕円を半分にしたような形の真っ白い扉が現れ、それはゆっくりと開いた。扉の向こうは真っ暗な闇だった。
 ニルは、それに見向きもしなかった。死んだ彼女の顔を、蒼白な顔をしてただ見つめていた。
 そのうち、ニルは、彼女の口元の泡を、手で拭った。その後、白目を剥いている彼女の目を、指でそっと閉じた。
 雨は止まない。大粒の雨に打たれながら、ニルはその場を動かずにじっと彼女の顔のみを見つめていた。
 ざんざんと降る雨。びしょ濡れのニルと、彼女の死体。そしてひたすらに過ぎる時間。ふと、ニルは思い出した。軍人の父から教わった、心肺蘇生法のことである。
 すぐさま、ニルはそれを試した。胸の真ん中、心臓の部分に、両手を重ねて、体重を乗せ全力でそこを数回に分けて連続で圧迫する。その後、直ちに口から口へ、息を吹き込む。思い切り吹き込む。それを、ニルは、何度も何度もひたすらに繰り返した。降る雨は二人を濡らし続け、打ち続けた。
 その一連の行為が百度ほど繰り返された後、見かねたロイがニルに声を送った。
「ニル君、それは意味がない。たしかに、仮の肉体を持った幻とは言え、その方法で息を吹き返すことはあり得る。でも、その幻はもう完全に死んでいるし、そもそも、ただの幻を蘇生させて一体どうするんだい?」
「ただの幻……?」
 ようやく行為をやめ、ニルが返答した。
「彼女の、どこが幻だって言うんだ! どう見てもルヴォワさんじゃないか! こんなことをさせて……。こうなるくらいだったら、初めから自力でロノミー湖に向かうべきだったよ!」
「ごめん……。君のことを誤解していた。君なら、その世界における試練を全て突破できると信じていた。実際、そうなったけど、君がこんなに傷付くとは思っていなかった。っていうんだろう? 君たちの間では。やはり僕にはそれを手に負えないみたいだ」
「最も殺したくない人なんて、君は言ったけど、君たちは何もわかっちゃいない。市長や局長とメルを比べたときに、僕が弟を助けるっていうのは、悔しいけど君の言う通りだ。でも、ルヴォワさんとナリンさんを比べた場合に、僕はルヴォワさんの方を殺したくないだって? 馬鹿げてる……」
「弁明をさせてほしいな。僕は君に確かにそう言った。でもそれは、飽くまで僕がその世界の設計者たちの残した文章を受けて、彼ら側の考えや基準、原則を君に伝えただけ。僕と彼らは違う。むしろ、僕の考え方は君の考え方に近い。大切な人たちを比べて、誰が一番好きか、一番殺したくないのは誰かなんて問うのはあまり意味がない。人には各々の個性や良さがあるだけじゃなく、人と人との関係性はそれぞれが固有で唯一無二のものだ。それらに順位なんて付けられるもんじゃない」
「……一つ、ロイ君に助言をしても良い?」
「もちろんさ」
「もうこの世界に、誰も招かない方がいいよ。意地悪をしたいなら別だけどね」
「ちょうど僕もそう思っていたところだよ」
 おもむろに、ニルは立ち上がった。
「この後、ルヴォワさんの幻はどうなるの?」
「君が扉をくぐった後のことかい?」
「うん」
「そのままだよ。その世界では死体が腐ることがない」
「雨は?」
「振り続ける。永遠にね」
「……じゃあ、次にこの世界に誰かが入ったら、どうなるの? ロイ君が招くことはないんだろうけど」
「その世界は、君専用のものなんだ。入る人それぞれに、個別に作られる。すごいよね」
「この世界で、僕の持ってるジャガの杖は使える?」
「……使えないよ」
「そっか」
「どうしてそれを先に訊かなかったんだい? もし使えてたなら、一瞬で終わるだろう?」
「そういう問題じゃないよ。僕は、人の体にジャガの杖を使ったらどうなるか、見たことはないけど教わって知ってるんだ。ルヴォワさんのそんな姿は見たくない。それに、幻には意識や感覚がないんだろう? あるならそうしたけど、ないなら意味がない」
「あは、幻を殺すことに随分苦労したみたいだけど、そこはちゃんと踏まえてたんだね」
「だから、そういう問題じゃないんだ。これは、君にはわからないと思う」
 ニルは、おもむろにしゃがみ込んだ。そうして、ずぶ濡れの彼女の体を、ずぶ濡れの両腕で抱き抱えて再度立ち上がった。
「君が何をしようとしてるか、僕にはわかる。その肉体を、元の世界に出て埋葬するんだろう?
 こくりと、ニルは頷いた。
「……好きにしなよ」
 そのロイの声は、どこか悔しそうだった。
 ゆっくりとニルは扉の方へ歩いた。そのまま、彼女の体を抱えて何もない闇の向こうへと進んだ——。

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