ロノミーの湖水(三十一)

 暗闇の中を手さぐりで進む。光源はどこにもない。闇は緩むことなく、ニルの全身を包んで離さない。その手に、その指に、あの舌の、あの吐息の主は触れないか。いや、そんなものよりむしろ、向かい合う岩壁のどちらかは触れないか。手や指に全神経が集中する。しかし、依然としてそこには何も感じない。
 やがて、ニルの心に、恐怖とは異なる情緒が芽生え始めた。苛立ちである。
 恐怖は僅かずつ減衰していた。一向に見えぬ光、空気以外に何も触れぬ手や指、舐めるだとか息を吹きかけるだとか、直接的な危害を加えるわけでもない、何をしたいのかわからぬ何者か。そういったものに対する湿った苛立ちが、恐怖を上塗りしつつあった。ニルの歩幅は徐々に伸びた。左右の足を前に進めるその律動は、少しずつ速くなった。
 ニルは、ロイの言葉を思い出していた。この世界を進むことが、元いた本来の世界を進むよりもロノミー湖への到着のための時間の短縮になるという言葉だ。果たして本当にそうだろうかとニルは疑った。歩く速度は初めよりだいぶ速くなったが、それでもまだ、通常の歩行と比べれば圧倒的に遅い。この暗闇は、いつ明けるのか。それとも、いくら待っても明けることはないのか。だとしたらこのままロイの言うゴールに向かって少しずつ少しずつ進んでゆくしかないわけだが、それでもなお、この道はロノミー湖に辿り着くための近道となるのか。覚悟の気持ちが鍵となる、とロイは言った。覚悟の量が一定の基準に達すると、目的地への扉が開けると。ならばこうやって歩いて前進すること自体に意味はないのだろうか。しかし、かと言って、動かずにただ立ち尽くしていたとしてもおそらく何も変わらないだろう。それでは何の覚悟も生じるとは思えない。そもそもこの世界における覚悟の定義が不明瞭なわけだが、とは言え、やはり結局のところ立ち止まるわけにもいかない。
 考えても、キリがなかった。ゆえに、ニルはひたすらに進むしかなかった。
くたばれ
 ニルの右の耳元に突如として誰かの声が聞こえた。それは男性のかすれた囁きだった。
 はっとして、ニルは即座に右を向いた。しかし当然ながらそこには暗闇がただ存在するのみであり、何一つ見えるものはなかった。
 ニルの苛立ちは、苛立ちというより直線的な怒りに変わった。その感情が湧き水のように湧いて出て、ニルの胸中を浸した。それは、先ほどの声の主に対してだけでなく、暗闇そのものや、この世界の設計者、自分をこの世界へ誘ったロイ等、この状況に関わる殆ど全ての事象や存在に対する怒りだった。
「くそ、何なんだ……。一体どうすれば良いっていうんだ!」
 息を荒げて、ニルは一人でそう声に出したが、その声は岩壁の狭間の闇の中で虚しく響くだけだった。
 次にあの何者かが、自分に対し何かしたり何か言ったりしたら——ニルは考えた。必ず、その者の体の一部をこの手で掴む、と。その決意は、無論、ニルの苛立ちや怒りが原動力になっているのだが、だからと言って、その、やろうとしている行為を短絡的な愚行だとも断じ難く、その何者かが、(たとえ今の体が仮の肉体だとしても)自分に何らかの危害を加えるかもしれない上に、自分の行動を更に妨害することも考えられる以上、その者と戦うことが無意味な行為だとは言い切れなかった。
 ニルは歩く。何も見えぬ闇の中を、慎重さと大胆さを兼ねながら、ゆっくりと、だが確実に歩く。そして、その行為と同時に、その何者かの自分に対する何らかの行動を、ニルは待っていた。
 くたばれ、と、はっきりと確かに聞こえた。「何者か」は、人間なのか? いや、人間とは限らない。ロイのように、人の言葉を操る別の存在かも知れない。ならば、少なくとも、知性を持たぬ獣の類は可能性から除外されるか。いや、そうとも限らない。何かしらの魔術を施されていればそれもあり得る。そもそも実体などなく、ただ声や感触だけを与えられていることも考えられる。魔術の存在を想定に入れるなら、殆ど可能性は無限大に広がってしまう気もするが、それでもなお、「何の魔術の影響下にもないただの獣」だけは外しても良いかもしれない——ニルはそう考えながら歩みを進めた。しかしその歩行は先ほどよりも一層遅い歩行だった。「何者か」の次の自分への行動に対し、それを逃すまいと構えていたからだ。
 歩みは止めず、決して留まらない。しかし、自分の神経の大部分を、「何者か」を捕らえるために使う。接近や接触の瞬間を逃すまいと注意力を集中させる。それは、緊張と疲労を伴う行為だったが、怒りという本能的で大きな動機は、ニルをその行為に容易く没頭させた。
くそくらえ
 右の耳元にその声が聞こえた。ニルはその瞬間、その声が聞こえた方に、声の主を捕らえるべく、素早く両手で掴みにかかった。
 がっしりと、ニルはその者を掴んだ。それは人間の頭部のような手応えだった。その者は、特に抵抗するわけでもなく、大人しくニルに掴まれていた。
 闇が、若干、薄まりはじめた。その薄まりはみるみるうちに顕著になり、ニルは、自分が掴んでいるものが生首であることを知った。しかもその顔は、鏡で見たのと同じ自分の顔だった。ニルは、声も出ぬほど驚いて、思わずその生首を放して落とした。落下したその生首は鈍い音を立てて地面に衝突し、ごろごろと転がった。
 闇は消え去り、完全に光が戻った。生首は、真上を向いて沈黙している。
おめでとう。二番目の試練はこれで終了だ」
 頭の中にロイの声が聞こえた。
「ロイ君、何だいこれは……? 君の言うこの世界の設計者達ってのは、悪趣味過ぎやしないかい……?」
「全くの同感だよ。僕も、その会ったこともない彼らが何を考えてこんな仕掛けを作ったのかさっぱりわからない」
「それで、この、僕の顔をした首だけの化け物を、僕が捕まえたことで、光が戻ったってこと?」
「そうだね。そう設計されてるらしい」
「とにかく、それでこの試練が終わったのなら、それで良いよ。出来れば、この用の済んだ生首は不気味だから消えて欲しいところだけど」
「あはは、その世界の設計者はそんなに親切じゃないよ。むしろその真逆さ」
「だろうね。こんなのを見せられちゃ、嫌でもそれがわかるよ」
「いいや……まだ君は、彼らの本当の趣味の悪さ、本当の意地の悪さをわかっちゃいない
「どういう意味? まだ何かあるの?」
「三番目の試練は最後の試練だ。でも、今までとは桁が違う。炎も闇も生首も、話にならないほどにね。そして、最後の試練だって言ったけど、実際のところ、ここまでの試練で覚悟の量が基準に達していなくても、結局三番目の試練を突破すれば、その際の覚悟で基準を満たし、ゴールの扉は開かれる」
「そんなに……?」
「ああ。その世界は、アイムアの森やロノミー湖に限らず、ある地点から別のある地点まで近道をするために使われる世界なんだけど、その世界で、二番目までの試練を突破する挑戦者は少なくない。でも、そのうちの殆どの挑戦者が、その次の試練で挫折する。自ら懇願して、試練を脱落するんだ」
「脱落?」
「君のためにあまり言いたくなかったけど、その世界は、案内役に申し出れば、いつでも脱落できる」
「脱落するとどうなるの?」
「君がその世界に入ったのはディーロ市だから、範囲としては、ほぼ、この広いティブ島のどこか無作為な場所に転送されることになるよ」
「それは困るな……」
「まあ、まずはゴールの方向に向かって歩いてみてよ。話はそれからさ」
「わかった」
 そう言って、ニルは、ロイの指示通り再び岩壁の狭間を歩いた。岩肌も、地面も、空も、そこに浮かんでる雲も、何もかもが、気が狂いそうなほど見た目に変化がなく、気味が悪かった。謂わばそれらは、どこまでも永遠に、無限に続きそうな風景だった。
 あの世があるとしたら、こんな感じなのかな。ニルが何となくそう思いながら歩いていると、遠くに人影が見えた。その者は、どうやら地べたに座り込んでいるようだった。
 誰だろう、と、ニルはその者に近づいていった。近づくにつれ、その者が女性であることがわかった。更に近づくと——
「え……? まさか……」
 ニルはその座り込んだ女性に見覚えがあった。ニルは更に近づいた。
……ルヴォワさん?
 その女性は返事をしなかった。膝を抱えてぼんやりと、眠そうな顔で空を見上げていた。
「君が見ているのは、ルヴォワ・コンフォのだよ」
 ロイがニルにそう語りかけた。
「幻?」
 ニルは、目の前にいるこのルヴォワの姿をした女性が、幻であるとは全く思えなかった。どこからどう見てもルヴォワ・コンフォその人にしか見えなかった。
「ルヴォワ・コンフォ本人の魂が複製されて、その世界に幻として現れている。君の今の仮の肉体みたいに、仮の肉体を持っているものの、その幻は飽くまで幻に過ぎず、本人の記憶や精神を持ちつつも、意識や感覚は無い。今は複製されたばかりで寝起きのような状態になっているけど、そのうちルヴォワ・コンフォ本人と少しも違わない状態の幻になるよ」
「この、ルヴォワさんにしか見えない人が幻だなんて、一体どう信じれば良いんだい……?」
「さあね。そして、三つ目の試練だけど、その幻を、君の手で殺すことが突破の条件となる
「……今、何て言ったの?」
「もう一度言うよ。次の試練はその幻を殺すことだ
 ルヴォワの姿をした幻は、ニルの存在に気付いていない。虚ろな表情で地べたに座り、ただ岩壁の狭間から空を見上げている。幻は今、あくびをした。

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