ロノミーの湖水(二十七)

 その者が側に来てから、ニルは不思議な安心感を得ていた。それは、側にいてさえくれれば誰でも良いという類のものではなく、その者が与える特有の安心感のようにニルには思えた。また、理由は何もわからないが、クルワセガニの毒の作用は消えていた。
「君は誰?」
 ニルがその者に尋ねた。
「僕の名前を聞いているの?」
 その者は、ニルの目を見ながら尋ね返した。
「うん」
「僕に名前はないよ。少なくとも、親から付けられた名前は何もないんだ」
「そうなんだ……」
 ニルは、この目の前の者が、元々捨て子として育ったのだと察した。そうして、ニルは口を閉ざした。
「ところで、君の名前は何て言うのかな?」
 その者は尋ねた。
「僕は、ニル。ニル・ユーテ」
「ニル君、君は、何をしにこの森へ来たの?」
「ロノミー湖の湖水が必要なんだ」
「どうして?」
「僕のお父さんが病気になって……。フェクタの指輪っていう指輪の宝石で治るんだけど、その宝石の効力がもう切れてて。それで、ロノミーの湖水があれば、その宝石の効力が戻るらしいんだ」
「それは大変だね。早く湖水を取って戻らなくちゃ」
「そうだね。でも——」
 ニルは、眉間に皺を寄せた。
「さっき、クルワセガニっていう蟹に足を挟まれて、その毒が効いてるんだ。なぜか今は治まってるけど……。完治させるためにはあと一個の果物が必要なのに、見つからないんだ」
「へえ、それは厄介だ」
「探しに行かなくちゃ……! じゃあね」
「待って」
 その者は、立ち上がって果物を探しに行こうとするニルを制止した。
果物がある場所を教えてあげようか?
「知ってるの?」
 ニルは目を丸くした。
「うん。でも、一つだけお願いがあるんだ」
「なんだい?」
「僕のことを、君が名付けた名前で呼んでくれないかな
「僕が?」
「そう。実は僕、誰にも名前をつけられたことがないんだ」
「どういうこと……? じゃあ、君の友達や仲間は君のことを何て呼んでるの?」
「友達や仲間か。僕に、そう呼べる存在なんていやしないよ。いや、世界中を探せば見つかるかもしれないけどね」
「じゃあ、僕が友達になるよ」
「君が、僕の友達になってくれるの?」
「うん」
 その者は、にっこりと口に笑みを浮かべた。
「ありがとう」
 その者は、そう言って、ニルに握手を求め、手を差し出した。ニルは、その手を握った。二人は握手を交わした。
「ところで、僕の、君が付ける名前を教えてくれない?」
「……ロイっていうのは、どう?」
「へえ、良い名前だね。由来は何かあるの?」
「特に由来はないよ。何となく、良い響きの名前だと思って」
「僕もそう思うよ。ありがとう」
「どういたしまして。それで、果物は、どこにあるの?」
「この森には、君が食べたヴォックの実以外に果物は成ってないよ
「そんな……!」
 ニルは激しく落胆した。
「ロイ君、それなら、最初から言ってよ……」
「ごめんね。でも代わりに、これを君にあげるよ」
「え?」
 ロイが肩掛けのカバンから取り出したのは、赤くて丸い果実だった。
「これは……! もしかして、果物……?」
「あはは……、これはただのリンゴだよ。この森に入って、知らない動植物を見過ぎたせいで大分感覚が麻痺してるみたいだね」
 そう言ってロイは、一個のリンゴをニルに差し出した。ニルは、それを受け取った。ニルはそのリンゴを齧り、一口ずつ、喉の奥に入れた。食べる前から既に、なぜか毒の作用は消えていたが、芯を残して食べ終えると、ニルは生き返ったような心地がした。
「ありがとう。これで、またロノミー湖まで歩いて行ける」
 ニルは、そうして、ロイと呼ぶことにした少年なのか少女なのかもわからない者に、別れの挨拶を告げようとした。しかし、その前に、ニルはロイに関する色々な疑問点に気づいた。
「ねえ、ロイ君、クルワセガニについて知ってたの? 二種類の果物を食べなきゃ治らないって」
「うん。知ってたよ」
「どうして、僕がもうヴォックの実を食べてたって知ってたの?」
「どうしてだろうね」
「どうしてリンゴを持っていたの?」
「それはたまたまだよ」
「どうしてアイムアの森にはヴォックの実以外に果物が成ってないって知ってるの?」
「厳密には、君がさっき食べようとしていた毒のある果実と、ヴォックの実の二種類だけどね。僕はよくこの森に遊びに来るんだ。この森のことはよく知ってるよ」
「よく遊びに来るって、こんな危険な森に?」
「僕にとっては危なくなんかないんだ。とても楽しくて面白い森だよ」
「いつも、どこに住んでるの?」
「僕に住んでいる家はないんだ。このティブ島の色々なところをまわって暮らしてるよ」
「聞きにくいことを聞いても良いかな……? 君は、もしかして、親に捨てられたの?」
「ある意味で、捨てられたとも言えるんだろうけど、僕はそう思ってない。僕は、誕生してから一度も親の顔を見たことがないし、親は、多分今頃僕がすぐに会えない場所で暮らしてるんだと思うけど、そのことについて、僕はあまり考えたりしない」
「君は、何歳?」
「自分の年齢を数えたことはないよ」
「……すごく、変なこと聞いていい?」
「いいよ」
「君は……人間?」
 ニルは、もしかするとロイに話しかけられたその瞬間から、或いは少なくともその顔や姿を見て言葉を交わしてからずっと感じてきたかもしれない幽かな違和感を、質問という形でロイに投げかけた。
「僕は人間じゃないよ。僕は昔から色々な呼び方をされてきた。ニル君も、僕のことをどう呼んだって構わない」
「それは……例えば、妖精とか?」
 ロイは笑った。
「あは、君には僕が妖精に見えるのかい? 面白いね。でも、確かに、そう言えなくもないかな」
 ロイは笑い続けた。
「そんなに可笑しい?」
「うん。人によっては、僕のことを妖怪や悪魔って呼ぶ人もいる。そして、神様だなんて呼ぶ人もね」
 言い終えると、ロイは、ふわりと、宙に浮いて上がった。それは跳躍ではなく、紛れもなく浮遊だった。そして、さきほどニルが登っていた枝にそのまま腰掛けた。
「すごい……! こんなことができるんだ……!」
「できるよ。ちょっと、妖精らしくしてみたんだ。どうかな?」
「うん。まさに、妖精だよ」
 うふふ、と、ロイはまた笑った。
「僕は、君がこの森に入ってから、ずっと陰で君のことを見ていたんだ。君は、面白いね。僕はほんの少しだけ人の心の中を覗けるんだけど、君は自分の心の弱さを乗り越えようとするところがある。色々な考え方があるけど、僕は、勇気っていうのは、臆病者や弱虫にこそ宿る精神だと思うんだ。君は勇気があるね」
「僕には、ばあちゃんが与えてくれた道具があるんだ。見てたでしょ? しかも、僕の耳に嵌めた小石から、家にいる弟の助言を聞くことができる。僕一人の力じゃないよ」
「この森に入った人間の中で、魔術的な道具を携えた人や、魔術そのものを使える人は何人かいたよ。複数で森に入ってきた人たちもいた。彼らは、それでもなお、自分の弱さから脱却し、困難に打ち勝つことが出来なかった。君みたいな勇気を持ち合わせていなかったんだ。それに、君はシャルの実を自ら手放したじゃないか。オオネコを救うためにね。君みたいな人間は、僕にとって初めてだよ」
「そうなんだ……。ありがとう」
 ニルは一応そう礼を言ったが、実際には、自分がロイの言っているような人間だとは思えなかった。
「君に提案したいことがあるんだけど、良いかな?」
 そう言うと、ロイは木の枝からふわりと不自然な速度でゆっくり飛び降りて地に足をつけた。
「どんなこと?」
「君は少しでも早くお父さんの病気を治したいんでしょう?」
「もちろん」
「ここからだと、ロノミー湖まで二時間半ほどかかる。でも、僕が知ってる道を使えば、数分でロノミー湖までたどり着く
「本当に?」
 ニルは真剣な眼差しでロイに尋ねた。
「うん。でも、ただではたどり着けない。君は、その近道を通る中で、試練を乗り越えなくちゃならない」
「……何だって構わない。行くよ」
 ロイは、歩き始めた。そうして振り返り、「ついてきて」とニルに同行を促した。ニルは、無言で頷いた。

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