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【日記】でも、サンプル数が1っすから

「 運も実力のうち 」って結構残酷な悲しい言葉だなと、ごく稀に「 成功者 」を見るとじんわりと感じる瞬間があります。



コンサルティングをメイン事業とする会社に入社させていただき、日々仕事に忙殺されながらも、社長さんやバケモノみたいな先輩方と一緒に仕事させていただいており、経営のなんたるかと言うのを、ようやく最近になって少しだけ雲の向こうに見えてきました。


で、やっぱりすごい人だなと思う人の特徴って結構似通っている部分が多くて、すごい人と会話させてもらった帰り道とかに、話した内容を思い出したりして「 こういう人が成功をするんだな〜 」と、コツコツと鳴る革靴の音を聴きながら蛍光灯に照らされている歩道をぼんやりと歩いているときに、頭にフワッと浮かんだりします。


夜な夜な妄想して帰宅している時間が一番楽しかったりするんですが、そのときに自分の考えをまとめられたら少しそわそわしちゃうという変な性癖を持ち合わせておりまして、成功する人のことを考えていてそわそわできた時の話なのですが、僕の中でのすごい人の特徴として一番にあげられることは、失敗の数が桁違いにあるという部分です。エジソンの発明品が信じらんない量だというのは、もはや有名な話かなと思いますが、成功というのは考る限りに失敗を全て体験していき「 消去法 」で手に入れるものだと言うことを知っているのだと思います。だからこそ「 これはここでミスをするのだ 」というくらいの気持ちでどれだけ実験できるのか勝負というスタンスで物事を進めているので、絶対に成功するはずと勘違いをしている人と違い「 数値 」に対しての幻想を抱くことなく素直に受け入れて行動を変えて行きます。しかも、僕みたいな若造のいうことを遮ることなく、最後まで聞いて真摯に受け止めてくれたりします。聞いてもらえているなって嬉しく思ったりもします(笑)


そんな態度で物事に取り組んだら、そりゃ気が付いたときには成功しているじゃんって思います(笑)


それじゃあ、僕もひたすらに失敗ありきでがむしゃらに仕事でもしてみようかなとか思うのですが、時間的には早く成功したいなって思ってしまうので、先人の成功した話を聞いてその通りにしてしまうという特に面白さのかけらもない道を歩んでおります。


という感じで、無難な道を歩んでいくという人生ですが、これが楽しいのか、これが一番良いのかということを悩んだりすると、自分のロールモデルとか、自分のライバルとかはどんな感じかなとか思って、ふと周りのことを見てみますが、成功者という部類に入る人でも「 え、でも、なんかすごくはないんだよなあ 」とか思ってしまう人もいます。


こんなことをその相手に思っているということ自体がまず失礼なのですが、さらに加えて失礼なこととして、その人から成功の法則とかアドバイスを聞くとものすごく薄っぺらさを感じます。


世の中、人の数だけ解釈があるので、僕が薄っぺらいと思っても世間一般では成功者として取り上げられるような方もいる。この自分の中での違和感が自分にとって「 そわそわの予感 」だったりもするので、モヤモヤし始めると逆に自分に期待をしてしまうのも少し考えものなのですが、そこでまた薄っぺらいと思ってしまう理由を考えてみました。


自分自身あまり頭が良い方ではないがため、いつも頭の中では分類から始めています。ロジカルシンキングとかの本には「 MECEが〜 」とか「 ロジックツリーが〜 」とか書いてありますが、そんな素晴らしいテクニックを使いこなせていないので、脳内作業で「 あれはこっち側 」とか「 これってどっちだよ! 」とか振り分けていって、アメトーク的なノリで「 なんのくくりですか? 」という流れて共通点を探したりしています。


すごい人と思う方と薄っぺらいと思う人のグループに分類すると、やっぱりというか、薄っぺらいと思っている時点で察せなきゃいけないのですが「 言葉の重みが違う 」と思うんですよね。まあ、そりゃ言葉に重みを感じないから薄っぺらいんですが(笑)


「 いやいや、もう少し別の角度でいけばなんとか出てくるんじゃないか?? 」と思いながら、まっすぐ夜道を歩いてしばらく経ってからふと頭に降ってきた「 言葉の理解度がちがうんじゃね? 」という仮説。これが少し正解くさいぞと思って、なんでそう思ったのかを考えてみると、これはちょっと自分の価値観ありきな理由での解釈だったのだなとは思いましたが、かなり腑に落ちました。


価値観とかが具体的にどういうことかというと、薄っぺらい人の選択肢というのは「 正解 」「 不正解 」の基本的には白黒つけていくスタイルで、そのこと自体の理解は少ないです。つまり、Aという課題が発生した際にはBという解法があり、それを先人たちはやって成功してきた、という法則を知っているだけにすぎません。その人自身はB以外の選択肢を知りません。だからこそそういう人たちの頭の中では「 A→B 」という絶対的な方程式があり、それを誰に何を言われても実行しきります。だから成功を納めているのですが、これこそが薄っぺらい要因ですし、ここの違いが言葉の重みを醸し出すところなんだと思います。


言葉の重みを感じれる人の選択肢の数は、自分が試してきた数です。だからこそその選択肢が「 絶対的正解である 」という妄想を抱くことはありません。つまり、自分が今しっている選択肢の中では「 今の所一番良い方法 」であるということは知っているけど、それだけではなくもっとさらによい方法があるかもしれないと受け入れられるのです。


これらの違いがあるから、薄っぺらい人と喋っている時の「 え、こんなのも知らないの? 今時当たり前じゃん!www 」という心の声が聞こえてくるような表情を見せつけられて「 あ、薄っぺらいな〜 」と感じてしまうのだと理解できました。


だからこそ、成功している人の「 いや、自分の結果なんてまだまだですよ 」と本当に心から思っている人ほど、他人の話を聞いて、なんでもいいからアイデアを手に入れて実験してさらに結果を出そうとするのだと思います。


ということで、ここまでわかってきたら色々付随してたくさんのことが溢れ出てくるのですが、この2分類の違いとしては薄っぺらい人は人の話を「 知っている・わかっている・できる 」といって遮りますし、言葉が重い人はたとえ知っていても「 どこかしらに別のアイデアがないか 」と最後まで全て聞いた上で質問をしてきます。さらに素人の意見を聞くと、薄っぺらい人は「 これだから素人はwww  」という反応をしながらいかに自分の方法がすごいかを語り出しますが、言葉が重い人は「 そんなことを考えたことなかった 」と興味津々に聞いていたりします。


こんな違いを色々考えましたが、別に自分の解釈なので、価値観によって左右されていると思いますので、薄っぺらい人と言葉が重い人で、僕は言葉の重みがある人の方が好きな理由をさらに考えてみました。


なんか、これに関しては一瞬で答えが出てしまって拍子抜けだったのですが、理由は単純でして「 0→1 」の工程が一番好きで「 1→10 」は過去の先人の「 0→1 」ありきやんかと思ってしまうからです。ただ、その「 0→1 」も他の分野の情報ありきで、その情報というのは「 0→1→10→100 」とやってくれた誰かがいたからで、そこは別にいいのかよって思いますが、心の中では自分にオッケーだしているので、まあよしとしてます。


ということで、多分僕の中ではどれだけ失敗してきたのかが大事で、感覚としては、その人が喋る言葉は、それに対して失敗してきた数だけ掛け算して重くなってくるのだと。だからこそ、失敗をゼロだとかけ算してゼロになりますし、20回失敗して入ればかける20で、20の重みがあります。


夜な夜な徘徊しながら変な妄想をしていて法則が見えてくるとそわそわしますが、ここでさらに一個新たな疑問が出てきました。


「 失敗をしないで成功を掴めてしまった人はどうなる? 」と頭の中に出てきてしまったので、考えてみましたが、やはり言葉の重みはかなりといってもいいほど軽いです。

もちろん自分の方法で手に入れていますが、失敗をしていないので「 どこに変数があるのか 」「 何が最も重要か 」「 どこが地雷か 」などは全くわかりません。理由はもちろん明白で、失敗がないからです。


軽くなる理由は、成功している要因の分析が全くできていないので、それゆえに自分が成功と思っていることと、本当に成功した要因が別にあるケースが多いです。


例えば、市場的に成長マーケットだから成功していたとか、地域属性があっただとか、タイミングが完璧だっただけだったりだとか、競合が自滅してくれていたからとか、本当はその方法では全然ダメな可能性がある方法でも「 成功をしている 」と世間に認められてしまうとそれだけで「 成功者 」になります。


「 いや、なんかうまくいったんですよね 」という言葉を聞くとよく「 運も実力のうちだからね 」という反応をする方も多いです。


確かに結果を出すためには、「 本来の実力+運 」を実力と受け取ります。この場合の実力とは、結果を出す力という定義で使っておりますが、この「 運 」の値が大きすぎると、本来の実力よりも過剰に結果を出せてしまうので、周りからも期待されますし、なによりも自分のことを過大評価してしまいます。


その点がかなり残酷であるのですが、運がなくなった瞬間の空虚な感じや周りからの反応というのは、想像に固くありません。一番良い例が、一発屋だと思います。彼らは死ぬほどアイデアをだした結果、一つ当たります。失敗をした数からすると本当に素晴らしいのですが、「 自分が成功している要因を本当に正しく理解していない 」のであれば、運がなくなった瞬間に終わります。


芸人の場合には、地道にファンを増やしていく以外に方法はなくて、急に人気を得ると、急に飽きられるので、ずっとファンという人を増やしていく必要がりますが、その点一発屋は消費をされて終わるだけという悲しい運命を辿ることになります。


話はそれてしまいましたが、一発屋も失敗した数でいうと多いですが、よくよく考えると「 その芸 」自体での失敗は少ないので、どちらかというと言葉の重みは少ない側なのかな、なんて思ったりもします。


よくもまあ、こんなに薄っぺらさだけで考えられるなとか自分に思ったりもしますが、本日の結論として「 サンプル数が1の場合には、それは法則とは呼べない 」ので、豪運で成功した残酷な成功者は、成功した時にこそ分析を試みるべきだなと。


改めて「 勝って兜の緒をしめよ 」って言葉って結構な含蓄のある、重い言葉だなって思います。



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