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『哀しみのベラドンナ』失われた美術原画復元計画(第3章)画質問題について

【重要】原画復元の画質問題について


『哀しみのベラドンナ』(1973)の画像を動画から復元するに当たって、どうしても解決できない、最大の懸念点となった問題をこれから書きたい。クラウドファンディング参加を考えている人は、よくお読みになり、内容を理解されたのちにご参加ください。

●入手できた劇場上映用4Kデータ

この原画復元計画は、『哀しみのベラドンナ』4K上映に当たって米国CINELICIOUSPICS社が高額な予算をかけてオリジナルフィルムから作成した劇場上映用4Kリマスターデータが著作権者から入手できたことで、一挙に実現性が高まった。

当初、米国や英国で市販されている4KマスターによるUHD(ウルトラハイビジョンディスク)から原画復元しようと思い、まずUHDを入手(そのとき品切れだったので中古のプレミア価格で入手した)。ここから原画が復元できないかを探った。

もちろん、画集を作るに当たっては、オリジナル画家の深井国氏とは別に、映画の著作権保有者に許諾を得る必要がある。ある程度原画復元の見通しが立ったところで、映画業界に通じた知人を介して『哀しみのベラドンナ』の現在の著作権者と会うことができた。

お会いして開口一番、先方が言うには、「劇場上映用の4Kデータがありますので、お貸ししますよ」だった。ずっこける思いがした。これなら高いプレミア料金を支払ってUHDを入手するまでもなかった。

●総データ量が9テラ超、しかし1コマあたりの解像度は…?

劇場上映用の4Kデータは4テラのハードディスク6台に分割して入っているという。4テラ6台! すると24テラバイトか? 聞くと、それぞれのハードディスクには容量にかなり余裕があり、10テラあれば足りるのではというお話なので、念のため12テラのハードディスクを送った。

それから2週間ほどしてコピーデータが届いた。コピーになんでこんなに時間がかかるのだろうと思ったが、届いたディスクから作業用にもう1台コピーを始めて納得。

とにかく鬼のようにデータが重い。ハードディスク間のコピーだけで約3日が費やされた。何度も故障か? と疑ったが、ジリジリと亀の歩みのようにコピーはされている。コピー終了時のデータ量は9テラと少しだった。3DCG制作を日常業務にしている人なら別だろうが、一介のフリーライターである私には、これほど重いデータを扱ったことがない。

次に掲載した写真がデータの中身である。データは6つのフォルダに分かれていて、その中に.dpxという見慣れぬ拡張子のデータがズラッと並んでいる。

1つのフォルダに約15分の映像が入っており、.dpxファイルは各2万1600個あったので、つまり1秒間24コマのうちの1コマが独立して1ファイルになっているデータ形式のようである。90分で9テラバイトになるのも納得だ。

このファイル、どうやって開ければいいのか。

検索すると、dpxファイルはPhotoshopと Premier Proで開けるというので、早速開いてみた。これまでのBlu-rayやUHDと比べても格段の高画質で、これはイケる!と思ったのだが、コマあたりの解像度を見て愕然とした。

72dpi。 何度見ても72dpiしかないのだ。

一般的に雑誌のカラーページは350dpiの解像度で入稿する。モノクロ原稿では600dpiでの入稿が一般的である。それが72とは、印刷用としてはいかにも解像度が足りない。なるべく撮影された原画サイズに近づけるためには、解像度をもっと上げる必要がある。

ところがデータ容量となると話は異なる。1コマあたりの解像度こそ72dpiだが、容量は1コマあたり70メガあるのだ。90分の映画なので、これが約13万ファイルある。なので全体で9テラバイトのデータ容量になるわけだ。

データ量はともかく、この解像度ではたして画集は作れるのか? 私達の作業はここから始まったのである。

最新のAIで解像度を上げ、画像補正

現在のAI技術を使えば元データの解像度を上げたり画質を補正することができる。すでに多くのAIがあり、毎月のように新しいものが出てくるので、適切なAIを探すことが一苦労だが、いくつかを試しながら決定していくしかない。

とりあえず72dpiから300にアップスケールした。もちろんさらに600や1200、2400に解像度を上げることは可能だが、実際に試してみて、やみくもにアップスケールしても意味がないという結論に達した。

数値的に解像度を上げることは可能なのだが、細部のディテールが足りない状態で解像度だけが上がるのだ。細部が欠けた古代の彫刻を高解像度カメラで撮影したようなもの、と呼べばいいか。例えるならこんな感じである。

古代ギリシャのレリーフ彫刻。経年劣化でディテールが剥落しているが、これをいくらでも高解像度で撮影することは可能。しかしたとえ一億画素で撮影しても、剥落したディテールは剥落したままだ。

細部を推測で描き込んで密度を上げるAIもあるが、それはそれで原画には無いディテールをコンピュータが勝手に描き込む危険性がある。

それ故、どうしてもオリジナル画家(深井国)による監修が必要なのだ。このプロジェクトでは、最新AIの技術を借りつつも、オリジナル作者が「違う」と言った復元原画は採用しないルールを貫いている。

復元過程ではAIを存分に使ったが、当然、使用したアプリはAI系だけではない。最終的な微調整は通常の画像補正アプリ(PhotoshopやLightroomなど)によって、人間の手で調整した。

原画の黒レベルを違えて出力した原画を確認する深井国。

細部を巧妙に再現する最新AIに感動


AIを使ってみて感動したのは、たとえば次の画面を復元したときである。動画なので、再生して見てほしい。

このアプリを使用した時は感動した。かすれて途切れがちな輪郭線がクッキリとし、ボヤけたように見える暗部の水彩の筆跡もはっきり出ている。AIをかける前の元画像と、かけた後の画像が、曇った窓ガラスを拭いたように目視できるAIの見せ方も良い。もちろん欠落した細部を勝手に描き加えることもない(鶏の顔など)。そのうえで、復元の「まとめ方」が巧みなのだ。

サンプルにした画面は明暗差が激しく、輪郭線が鉛筆で描かれているので普通の画像補正アプリではもともと限界があった。深井国の原画はとにかく繊細なのである。この場面はおそらく一番復元が難しい画像の一つだと思う。


●フィルム特有のノイズ「グレイン」問題

最後に残る懸念点は「グレイン(粒状ノイズ)」の問題である。

グレインはフィルム映像には宿命的に付きまとうノイズで、細かいザラザラとしたノイズが必ず画像に乗るというものだ。例えばスタンリー・キューブリック監督『フルメタル・ジャケット』(1987)の次の一場面をご覧いただきたい。

「フルメタルジャケット」(1987)より
上の画像を拡大したもの。画面を覆い尽くすザラザラノイズがグレイン。

どうだろうか。全体にザラザラとした粒状のノイズが乗っていることが分かるだろう。このザラザラがグレインである。グレインは、アナログのフィルム画像には静止画(スチル)写真を含めて必ず乗っているが、動画のそれはスチル(静止画)写真より甚だしい。

なぜ我々が映画を見ていてグレインを気にすることがないのかというと、グレインはフィルム1コマごとにランダムに現れるノイズであり、コマごとの現れかたがすべて違う。これを映写すると、1コマ1コマが高速で人の網膜を通過するので、人間の視覚ではほとんど感知できないのである。問題になるのは、フィルム1コマだけを抜き出して印刷に使う場合だ。

これが十分な照明下で撮影された高解像度のスチル写真であれば、グレインが気になることはほぼ無い。

だから、ほとんどの映画には「スチル(スチール)カメラマン」と呼ばれるスチル担当のスタッフがいたのだ。映画本編のカメラマンとは別に、撮影現場で監督が「カット」と言った瞬間にスチル写真専門のカメラマンが本編と同じ背景、同じ照明で素早く役者の写真を撮影する。

その写真をどこに使うのかというと、主に紙媒体の宣伝記事や、広告などである。ポスターに使われる場合も多い。なぜ本編のフィルム画像ではなく、わざわざスチルカメラで別撮りするのかと言うと、印刷原稿としては、本編フィルムからデュープ(複写)した写真よりスチル写真の方がグレインが少なく、遥かに鮮明な画像が得られるからである。

スチルカメラマンが撮影した写真が宣伝に使われて絶大な効果を上げた例が、日本映画の名匠・野村芳太郎監督「砂の器」のポスターである。「砂の器」と聞くと往年の映画ファンなら必ずこのポスターを思い出すのであるが、ここで使われた写真は本編カメラマンの川又昂ではなく、野村芳太郎作品の多くを担当した松竹のスチルカメラマン金田正によるものである。

本番撮影で監督のカットがかかった瞬間に、川又昂の隣で待機していた金田正が本編とほぼ同じアングルで撮影したもの。この、ハンセン氏病に罹患した父親(加藤嘉)と息子が物乞いとなって各地を放浪し、日本海の海岸を歩く哀れな後ろ姿の写真を記憶する映画ファンは多い。

松竹映画『砂の器』(1974)のオリジナルポスター

この、宣伝のためのスチル写真を嫌ったのがスタンリー・キューブリックである。そもそも本編の撮影で忙しく、集中力が要求される撮影現場に本編とは関係がないスチルカメラマンが常駐するのは、監督にとっては邪魔以外のなにものでもない。それ以上に、監督にとって「作品」と呼べるのは自分が演出した場面を撮影する本編カメラマンによる映像であって、カットがかかった瞬間に別のカメラマンが横から撮影するのは監督の演出範囲を越えている。また極度の集中力が要求される本番での演技と、カットがかかった以降の演技では、役者の緊張感が失われ、同じ役者がただ本番と同じポーズを取っているだけ、になる場合も多い。

だからキューブリック監督は現場にスチルカメラマンを置かず、宣伝や広告などで映画の場面が必要になっても、本番フィルム以外の映像を絶対に使わせなかったのだ。

雑誌でキューブリックの新作映画の特集を組む場合は、雑誌編集者が必要な場面を指定すると、監督のアシスタントがその場面を本編フィルムからコマ単位でデュープして雑誌社に渡していたのだという。だからキューブリック映画の記事や宣伝に使われる写真は「グレインまみれの汚い写真」ばかりなのである。しかし監督にとっては、それこそが監督自身の演出による「監督の作品」の一部であるのだ。

キューブリックの話を長々と述べたのは、『哀しみのベラドンナ』も、まさに「本編映像を使うしかない」状況に置かれているからである。キューブリック作品が監督の意図として本編映像しか使わせないことに対して、ベラドンナは「本編映像以外の素材(原画)がもとから存在しない」差があるわけだが。

もともと深井国の原画にグレインは無い。今回の企画は「オリジナル原画を復元する」ことにあるので、グレインが残っていては原画の忠実な再現とは呼べないのではないか? そう考えた私は、作業の初期段階で、AIによってグレインを消す実験も行った。

グレインは見事に消えたが、そうすると、のっぺりとした、面白みに乏しい画面になってしまうのである。深井先生に見せても、原画にはないはずのグレインが乗った画像の方を好まれた。どうも、適度にグレインが乗っている方が、人間はそちらに空気感・リアリティを感じるようなのである。面白い傾向だと思う。

補正前の画像
AIでグレインを除去した画像。一見綺麗だが、ディティールがかなり欠落してしまっている。

ちなみに今回の復元原画では、同じ場面内の、なるべくグレインが少ないフィルムのコマを使い(グレインが現れるパターンは1コマごとにすべて違っている)。AIによるグレイン低減は切り出した画像ごとに除去率を判断しつつ作業を進めている。

アナログフィルムのグレインは映画写真集を作るときには必ず問題になるが、これをフィルムの「味」として肯定的に捉える人もいる。グレインはアナログ写真特有の現象なので、近年のデジタル写真にグレインは無いが、これをわざわざグレインを生成して往年のアナログ写真のように見せるアプリすら存在する。そのほうが「味がある」と考える人もいるからだ。

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