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『哀しみのベラドンナ』失われた美術原画復元計画(第1章)

↑日本公開版予告編

●虫プロの「白鳥の歌」・伝説の長篇アニメーション『哀しみのベラドンナ』とは


※文中での敬称は略させていただきました。

白鳥は己が生命のまさに燃え尽きんとするとき、生涯にもっとも美しい声で鳴くと言われる。これを「白鳥の歌」という。

1973年に公開された長篇アニメーション『哀しみのベラドンナ』は、直後に製作会社の株式会社虫プロダクション(以下虫プロ)が倒産したことで「虫プロを倒産に追いやった作品」と言われることがあるが、これは正確ではない。会社の経営不振は製作前から始まっていたのであり、むしろ最後の力を振り絞って完成させた虫プロの「白鳥の歌」というべき作品だろう。

1961年に手塚治虫が創始した虫プロは、日本でいち早くテレビアニメーション製作を開始し、『鉄腕アトム』(63~66)『ジャングル大帝』(65~66)『リボンの騎士』(67~68)など、手塚漫画の人気作を原作に次々とテレビ放映することで日本のアニメーション新時代を築いた。

一方、手塚には早くから「大人に向けたアニメーションを作る」構想があり、それは虫プロ初の劇場長篇で、アニメラマと銘打たれた『千夜一夜物語』(1969)で実現する。耽美的でエロティックなシーンをアニメーションで大胆に描き、娯楽性もたっぷりな同作は大ヒットし、アニメラマ第2作『クレオパトラ』(1970)もヒットした。

しかし70年代に入ってから虫プロの経営は急激に悪化、手塚は多忙な漫画執筆のかたわら資金繰りに追われることになる。

1971年6月、手塚は虫プロの代表取締役を辞任した。山本暎一《えいいち》も退社していたが、演出家として長年虫プロを支え、手塚と共同監督でアニメラマ2部作を成功させた山本の復帰を虫プロ役員会が懇願、1972年6月に山本は転社先からの出向という形で虫プロに戻った。山本は長篇の企画を練り、60年代末に初めて完全な形で邦訳されたジュール・ミシュレ『魔女』という本に注目する。

1967年に篠田浩一郎によって初めて邦訳が出版された『魔女』。オリジナルは1870年刊。現在は岩波文庫に収録されている。

●ミシュレの『魔女』について

『魔女』は19世紀フランスの歴史家ジュール・ミシュレの代表作で、ヨーロッパ中世に猖獗《しょうけつ》を極めた魔女狩りの背景となった魔女や魔術などの歴史的成り立ちを、近代人の合理的視点から解き明かした書物である。1967年に現代思潮社から邦訳上下巻が刊行され、話題となっていた。

魔女が誕生した背景には、「暗黒時代」とも呼ばれる中世の封建社会がもたらした民衆の無知と貧困があり、特に女性の地位は低かった。夫を失って困窮した女性には森に隠れて薬草を採って暮らす者もいた。薬草の中にはベラドンナのような薬にも毒にもなる幻覚性の植物(麻薬)もあったことから、これを扱う彼女らは教会から魔女と呼ばれ、迫害されることとなった。

そうした貧困と差別によって鬱屈した民衆の不満が、やがては女性も参加する一斉蜂起となってフランス革命へと繋がっていく。それがミシュレが描いた歴史の真実であり、魔女と呼ばれた者の悲劇の本質に迫ったこの本は、世界最初のフェミニズム文学と呼ばれることがある。

ミシュレはヨーロッパ中世史・フランス革命研究の泰斗《たいと》として有名で、ミシュレの名を知らぬ人でも彼が考案した「ルネサンス」という言葉を知らない者はいない。

ジュール・ミシュレ(1798〜1874)

山本はこの著作に感銘を受けた。時代は東西冷戦とベトナム戦争が泥沼化し、世界の破滅が現実化するのではと思われていた。若者の間にはドラッグが蔓延し、サイケデリック革命が起きていた。ビートルズなどポップカルチャーの全盛期でもあった。ビートルズ自身の企画で長篇アニメーション『イエローサブマリン』(1969)が公開され大ヒットし、実験的な技法を駆使した同作は、ミュージックアニメであると同時にアート・アニメーションとして高く評価された。同作の成功は『哀しみのベラドンナ』製作の直接の契機になった。(※註)

そして、女性解放運動としてのフェミニズムの勃興期でもあった(当時フェミニズムはウーマンリブと呼ばれた)。『哀しみのベラドンナ』が成立する素地は十分にあったのである。

(※註) 『イエローサブマリン』の予想外のヒットに驚いた上映館のみゆき座(現在のTOHOシネマズ日比谷)が、虫プロのアニメラマを配給していた日本ヘラルド(現在の角川ヘラルド)に「もっとああいう作品が公開できないか」と持ちかけ、日本ヘラルドから虫プロに声がかかって『哀しみのベラドンナ』製作に繋がった。

●山本暎一監督の最高傑作

「哀しみのベラドンナ」企画・監督 山本暎一(1940〜2021) 

山本暎一は1960年に手塚治虫がアニメーション制作会社を作ることを聞きつけ、それまで働いていたアニメスタジオを辞めた。手塚にとってもアニメの制作経験がある山本の参加は大歓迎だった。山本ははじめアニメーターだったが、移籍後、演出家として頭角を現す。

虫プロ第1作『ある街角の物語』(62)には、山本は期を同じくして虫プロ創設に参画した坂本雄作とともに「演出」とクレジットされている。原画クレジットには、この両名と並んで杉井儀三郎(ギサブロー)の名前も見える。坂本と杉井はともに東映動画からの移籍組で、多くの虫プロアニメ、ことにテレビアニメの作画演出を含む制作手法の確立に貢献した。杉井ギサブローは今も現役のアニメーション監督として著名である。

杉井ギサブロー(1940〜)アニメーション監督・作画監督。

山本は脚本を実写映画のベテランである福田善之に依頼し、作画監督に杉井を指名する。しかし、美術に、それまでアニメとは無縁だった画家・深井国を抜擢したことで、作品の方向が決定づけられた。『哀しみのベラドンナ』が山本暎一の最高傑作であると同時に、アニメーションとして他に類を見ない孤高の作品となった最大の理由は、深井の描いた美術にあるのである。

●アニメーションにおける「美術」と「キャラクター」の垣根を越えて

画家・深井国(1935年〜)※吉澤士郎撮影。2023年10月5日。

深井国ははじめ貸本漫画家としてデビューしたが、60年代中盤から絵画(イラストレーション)に転向した。西欧風の美人画を得意とし、高い美術性と大衆性を兼ね備えた彼のイラストは早い時期に海外でも注目され、1965年にはパリ・プランタンデパートのショーウィンドウを彼の美人画が飾った。深井の絵には国際性があったのである。

山本暎一から作品参加の打診が来たとき、深井は戸惑った。彼はそれまでアニメーションをほとんど見たことがなく、仕事として関わったこともなかったからだ。しかもキャラクターデザインだけでなく、美術も深井に頼みたいという。

アニメーションにおける「美術」と「キャラクター」はまったく別の領域である。アニメで「美術」というとき、それは主として動かない背景画を指す。美術監督としては、宮崎アニメの美術で著名な山本二三・男鹿和雄などがいるが、彼らが描くのは動かない背景であり、キャラクターではない。

キャラクター作画はアニメーターの領分になる。アニメーターは何枚もの透明なセルにキャラクターの動きを分割して描き、それを動かない背景画(美術)と1コマずつ重ねて撮影することで、背景の中でキャラクターが動いて見えるのである(デジタル制作による近年のアニメーションにセルは存在しないが、それでも背景=静止画とキャラクター=動画の関係は昔と変わらない)。

しかし深井は、ふだん描いているイラストレーションと同じように、キャラクターと背景を同時に1枚の紙に描いた。するとどうなるかというと、映画は、動かない画を映写することになるのである。

結果として『哀しみのベラドンナ』は、作品全体の70%が静止画、30%ほどが動くアニメという、アニメーション映画としては極めて異例な作品になった。

もちろん山本には勝算があった。静止画をただ撮影しても映画にはならないが、カメラを動かすことで画面に動きをつけたのである。これに俳優の声と音楽をつければ映画になる、と考えた。

深井国のような著名な画家がアニメーションに参加する場合、多くはキャラクターデザインだけお願いして、あとはアニメーターがアニメとして動かしやすくアレンジしたキャラクターをセル画として描くことになる。それでは深井の美麗な絵が死んでしまう、と山本は考えたのではないか。

アニメとして異例なこの手法は、深井国の絵の芸術性を尊重するがゆえに選ばれたといえる。逆にいえば、深井の絵に静止画としてのクオリティがあるからこそ成立した映画作品なのだ。

こういう技法の映画が過去にあるかというと、実はあった。実写映画の鬼才大島渚が白土三平の劇画を映画化した『忍者武芸帳』(1967)がそれだ。白土劇画のファンだった大島は、白土が単行本のために描いた紙原稿を縦横にカメラを動かしながら接写し、小山明子・戸浦六宏・佐藤慶といった大島映画の常連俳優に声優をやらせて見事に長編映画を作ってしまったのである。なお『忍者武芸帳』予告篇では、これをアニメーションではなく「長篇フィルム劇画」と冠している。

『ベラドンナ』を監督するにあたり、山本暎一監督の脳裏には、おそらく大島渚の実験作『忍者武芸帳』があったと思われる。

●廃棄され、散逸・消失してしまったベラドンナの美術原画

1973年6月に『哀しみのベラドンナ』は封切られた。作品は同年のベルリン映画祭に出品され、子供向けのアニメ映画と勘違いして入場した家族連れがその過激な内容に仰天して事務局に抗議するハプニングもあったそうだが、非常に適切で好意的な批評も出ている。以下、Wikipediaの項目からそのときの評価を抜粋する。

「これら出品された映画の中で、日本の長編アニメーション映画が第一に挙げられるであろう。それは、若き監督山本暎一と、才能ある、手堅い手法を持った天才的デザイン画家深井国の『哀しみのベラドンナ』である。(中略)中世のゴシック様式の挿絵から、ビアズリー、青年様式派、ポップアートまでに至る無数のスタイルが継ぎ目なしに溶け合って、超自然美と完全にエロティックな力が無限のシンフォニーを奏でている。映画史上に残る真に偉大な映画である。しかしながら、また多くの偉大な作品と同様に、沢山の誤解と無理解に出会うことであろう。」

このドイツの批評家の名前は残念ながらWikipediaには出ていないが、作品の本質と、その行く末までも見通した、まことに的確な批評だと言わざるを得ない。

批評がはからずも予言した通り、この余りにも大胆不敵な作品は興行的には不発に終わった。ベルリン映画祭で上映した時点のこの作品は、火刑に処せられたジャンヌの崩れ落ちる亡骸から暗転して仲代達矢演じる悪魔の高笑いが響いて終わったそうだが、これが不評で、日本でのロードショー公開時、山本はこの高笑いをカットした。余りにも救いがなさすぎるとの判断だろう。

また1979年の再公開時に、山本は性的に過激すぎると判断したシーンをカットしている。女性にも見やすいようにとの配慮からで、これは「女子大生バージョン」と呼ばれている。現在見ることができるバージョンは、女子大生バージョンでカットした場面を元に戻し、最後にバスチーユ監獄襲撃に始まるフランス革命の絵を挿入して「フランス革命の先頭に立ったのは女たちであった」と字幕が挿入され、ドラクロワの「民衆を導く自由の女神」の絵が大写しになって終わる。

最後にフェミニズムテーマを全面に押し出して終わるこのラストカットの挿入に、作画監督の杉井ギサブローは「映画作家がテーマを言葉で説明してどうする」と猛反対したという。


ポスターB。魔女となったジャンヌの背後に敷かれているのは金インク。B2サイズ。

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