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「うっせぇわ」を聴いて「ごめんね」と思った42歳の話。

「現代のプロテストソング」-

Ado「うっせぇわ」をYouTubeで聴いて、まずそう思った。
現代の10代は、こういう風に社会にプロテストするのかと、42歳のおじさんは思ったわけである。

我々の時代のプロテストシンガー、尾崎豊が亡くなったのは1992年。
その時、私は14歳。中学2年生だった。
まだ我々の世代は、尾崎豊は思春期の「通過儀礼」としてギリギリ機能していたと思う。

「盗んだバイクで走り出す」(「15の夜」)
「夜の校舎窓ガラス壊して回った。逆らい続け あがき続けた」
(「卒業」)

大人が、社会が、「反抗すべき存在」であることは今も昔も変わらないのであろう。しかし昔は、逃げたり、歯向かったりして、その反抗を大人たちに対して行動で表現していたし、その先に求めていたのは「承認」だった。

「誰にも縛られたくないと逃げ込んだこの夜に自由になれた気がした」
(「15の夜」)
「先生あなたはかよわき大人の代弁者なのか」(「卒業」)

そこには、「スクールウォーズ」や「GTO」あるいは「金八先生」といった学園ドラマのように、ぶつかり合った果てに分かり合おうとするかすかな希望が含まれていた。それが「大人への階段」だったのだ。

しかし、「うっせぇわ」では、ハナから反抗などはしない。

ちっちゃな頃から優等生
気づいたら大人になっていた
ナイフの様な思考回路
持ち合わせるはずもなく
(中略)
最新の流行は当然の把握
経済の動向も通勤時チェック
純情な精神で入社しワーク
社会人じゃ当然のルールです

表面的には大人に従い、周囲の空気を読み、集団から外れることを過度に恐れて成長していく一人の若者の姿がそこにはある。彼/彼女は大人からすると一見、「従順ないい子」に見えたことだろう。

しかし、その内面は正反対に、大人への深い失望で覆われている。

はぁ?うっせぇうっせぇうっせぇわ
あなたが思うより健康です
一切合切凡庸な
あなたじゃよく分からないかもね
嗚呼よく似合う
その可もなく不可もないメロディー
うっせぇうっせぇうっせぇわ
頭の出来が違うので問題はナシ

反抗を態度に出すことすらなく、ひたすら大人とのコミュニケーションを拒絶している。「うっせぇわ」というのは「ただ、視界から外れてほしい」「もう、関わらないでほしい」という、相手をコミュニケーションの対象から除外する、最も無関心で冷たい態度を表すフレーズである。

なぜ、大人とのコミュニケーションを拒絶するのか。
それは、時代が、彼らが正しくないことを明らかにしてしまい、コミュニケーションする価値を持たない存在になってしまったからである。
正しくない存在と向き合う必要はないのである。

酒が空いたグラスあれば直ぐに注ぎなさい
皆がつまみ易いように串外しなさい
会計や注文は先陣を切る
不文律最低限のマナーです

実は私はこの4行のフレーズに心を打たれてこのnoteを書いている。
私が社会人になったのは2001年。
新社会人は、まずは仕事以前に「お酒の飲み方」を上司や先輩から徹底的に仕込まれる。それこそ「空いたグラスに酒を注ぐ」「大皿を取り分ける」といった「社会人の基本動作」である。それは今も変わらない。

問題は、僕たちの世代はそれを
「何の疑問もなく、通過儀礼だと思って唯々諾々とこなしてしまった」
「それを数年後には、後輩にも当然のように"教育"してしまった」
ことにあると思っている。

僕たちロスジェネ世代は、「旧世代の末裔」であると思っている。
バブル世代ほどおいしい思いはしていない。
そして「ミレニアル世代」「Z世代」のような、価値観の新しさを持たない。上の世代についていき、上の世代の価値観を無批判に踏襲した結果、いつのまにか日本はどんどんダメになっており、デジタル化とグローバル化の中で新世代が台頭し、その狭間にある一番中途半端な世代である。

僕たちには「空いたグラスに酒を注ぐ」行為に、日本の大人は間違っている、この価値観に追随する先には日本企業の没落しかないという感性も先見性も持たず、「気配り」という美名のもと、一生懸命上の世代の酒の飲み方を踏襲してきた。「うっせぇわ」と思うセンスは我々にはなかった。

その結果、

はぁ?うっせぇうっせぇうっせぇわ
くせぇ口塞げや限界です
絶対絶対現代の代弁者は私やろがい
もう見飽きたわ
二番煎じ言い換えのパロディ
うっせぇうっせぇうっせぇわ
丸々と肉付いたその顔面にバツ

と若者から言われてしまう大人にいつの間にかなってしまった。

そう、いつの間にか、気づいたらなっていた。

現代の日本のおじさんは「オワコン」であることに、若者だけでなく社会全体が気づいている。大義は若者にある。だからおじさんたちの押し付けに従う必要はない。敢えて逆らう必要すら感じない。

ただただひたすら「うっせぇ」存在でしかないのだ。

そう。ここでくわしく説明するまでもなく、日本企業はただひたすら日本企業であり続けたために、失われた30年を生んでしまった。それは元はと言えば「空いたグラスに酒を注ぐ」洗礼から始まる企業文化なのであり、それに何の疑問も持たずに追随していった大量の「かつての若者、今のおじさん」なのである。おじさんは今の日本をこんな風にした「戦犯」なのであり「先輩」ではないのである。

もう一度繰り返す。
2001年のあの当時、僕たちの世代は「空いたグラスに酒を注ぐ」行為に「うっせぇわ」と思う感性は持っていなかった。

だから。

この歌のタイトルでありメッセージである「うっせぇわ」には、
僕はこう答えるよりない。

「ごめんね」

と。


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