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日常の全体感を取り戻す

選択と集中とか、作業より仕事とか、ずっと当たり前のように思ってきた前提を一度、手放してみる。私自身、少々反省の時間を持ちたいと思います。お付き合いいただければ幸いです。

職場にある仕事VS作業の場面

新人研修で最初に習うことに「業務=仕事+作業」という公式があります。
諸説ありますが、日常業務は、「仕事=やり方を都度勘案して進めるもの」と「作業=予めやり方が定まっているもの」から成り立っているというものです。

講師の方は、新人の時は作業から入って、ベテランになると仕事へ、レベルアップしていく、というニュアンスで研修を進めます。この公式には、「仕事>作業」という前提が見え隠れする感じがします。

上司が部下に対して「作業だけでなく仕事をしてくれ!」と言ったり、それを言われた部下も「自分の仕事を低くみられた、あいつだけは許さん!」となる場面、ありませんか。
不思議なことですが、この場面で対立した上司も部下も「仕事>作業」の前提で考えているように思えます。

職場にあるコア業務VS非コア業務の場面

1990年代に経団連などが提唱した「選択と集中」戦略、正社員はコア業務に集中して非コア業務は派遣・外注などの非正規でというやつです。

諸説あると思いますが、コア業務というのは、直訳すると企業活動の根幹となる業務ということですが、少々下品な言葉かもしれませんが「稼げる業務」ということでしょう。
提供者側の企業が儲かる市場やサービス・商品を選択して、経営資源を集中する。当たるも八卦当たらぬも八卦、少々博打の香りがします。

「コア業務>非コア業務」、ここにも暗黙の前提が在るように感じます。

誰かにとっての作業は、誰かにとっての仕事
会社の非コア業務は、ある社員のコア業務

そのまた逆もあります。

こんなことの不一致、不理解が不機嫌な職場を生み出しているような気がします。
 

コロナ禍でみられる分業加速、サービス低下

行動制限が解除されて出張にでる機会が増えました。飛行機に乗りますと、有形無形のサービスが合理化のためか、なくなっていっているのを感じます。売上に直結する予約はシステム化して便利になっていますが、変更とか、なにか問い合わせしようとすると大変です。システム化は難しいし、分社化や外注化で包括的に対応する部門がないのです。

神対応などといわれていたプラチナ・デスクも見る影がありません。これも外注化の弊害か、ベテランのスタッフがいなくなってしまったと感じます。現在のスタッフの資質というよりは、積み上げてきたサービスの歴史を分断してしまったためではないでしょうか。

コロナ禍を切っ掛けにショック・ドクトリンよろしく一気に「改革」が進んだようです。

一人暮らしになって変わった朝の時間

家内が亡くなって一年、生活が根本的に変わりました。特に変わったのは朝の時間帯です。慌ただしいと感じる主観的な時間は変わりませんが、客観的な時間は大きく変わりました。

以前は起きてご飯食べて髭を剃って着替えて出て行く、所要時間は30分もかからない感じ。
今では6時前後に起きて準備完了まで2時間はかかります。この一時間半の差が、家内のやってくれていた仕事ということになります。私が慣れていないということもあると思いますが、短縮できても30分くらいでしょう。2人力とは凄いと実感しています。

家内とは35年間、夫婦というプロジェクトを無意識のうちに手分けしてやってきました。どの仕事も作業もプロジェクトに欠くことのできないもの、私は朝の時間を通じて全体感を取り戻そうとしています。

仕事に集中しても作業は消えない、全体感を取り戻す

仕事に集中しても作業はなくならないし、コア業務に絞っても非コア業務は残ります。
量子物理学では、真空になったと思った瞬間、新しい物質が生まれ、宇宙は真空を許さないそうです。それと同じ事が日常にも起こっているのではないでしょうか。
 
人が身体と心から成り立つように、すべてはバランスなのでしょう。力強い左脚も不器用な右手も自分の一部、折り合いをつけて生きていくのが人の在り様、そうではないでしょうか。
 
業務=仕事+作業、この公式は成り立つと思います。

全体感を持ち、動的な平衡を生み出す。
その時、その時に丁度良いバランスをとる努力をする。

自分の一部を切り離したり、自分の一部に勝つことができないように、完勝はないとすると調和を保つ努力するしかないのでしょう。

全体感を取り戻す、大切な事だと思います。