ハローワークに行ってきたよ。

2月の中頃にリゾートバイトによる派遣先でのお仕事を終えてからというもの。

実家に帰って、しばらく体調を整えていました。

急に頭がモヤっとなり、心拍が上がり手汗がでてくるような症状が突然出てきて、こりゃまずいなと安静にしてた。お薬も飲んでる。

すぐ精神的なストレスによるものだと察知した。ここ数年どうも自分の様子がおかしくてムリしてる自覚があった。

でも体からのSOSは絶対に無視してはいけないなと痛感した。これを無視してたらヤバかったかも。間違いなく最終宣告だった。

偶然にも次に決めて進んでいた選考が不採用になり、また考える時間が設けられたから不調に立ち止まれたものの、またムリして体に鞭打って1人旅を続けてしまうところだった。

ほぼ1ヶ月半。しばらく安静にしてたら、徐々に自分が元気になっていく様子は、家族と会話する中で実感として身に覚えたし、両親とも親密になれた。

さて、少しは元気になったのもあり、迎えたい景色もあるので、主体的に動いてかないとなと思ってるわけ。

そんなこんなでベストな道筋を選ぼうとしてるわけだけれども、そんなものはどこにもなくて、実際はほぼ運(縁とタイミング)であり、数を打つしかない。

それでも直感という名の経験則から、これから過ごす人生のお仕事を、あれやこれやと条件入れて検索絞ってるわけだけれども。

こんな田舎の地域で絞って多くの求人を見たけれども、これら全ての職種において当たり前のように、今日もそれぞれの配属先では誰かが仕事を行っていて、便利で豊かな社会をサポートしているという現実を知ると、たしかに僕だけサボっているようにも思える。

やはり仕事というのは、わかりやすく言うと日本人という「共同体の誰かがやらねばならないこと」であり、われわれで分担していることであり、汚れる仕事を避けて自己実現を狙って日本に暮らすうちは、「自分が携わりたくないから代わりに誰かやって」をしてもらっているに過ぎないかもしれない。

わかんない。だからAIが変わってくれる未来になるという話も聞いたりするから。

ただ、こうして大局観というか、視野を広げた認識に捉え直してみると、身近な人々に対して感謝の意欲が湧いてくる気がする。

さて。

そうは考えても、自分の体調を崩してしまうことは、一緒に社会の歯車に貢献していくどころか、より足手纏いとなる期間を増やすだけなので、くだらない考え事で焦りや不安を生み出すことよりも、先に元気になることが「元気があればなんでもできる」を口に出してやれそうな気がする。

総じて。

愛情を取り戻せたかなと思う。人は皆、家族愛から始まり、友情、友愛、友誼へと広がっていくものだろうなと考えているから、また一度実家に帰ってきたことで、家族愛を補給できたのかもしれない。そのカタチはとらえられないけれども。

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