生きるとは。

皆に聞いてみたい事の一つ、生きるとは。
この問いかけでその人の事がある程度カテゴライズ出来ます。
何を恐れているか。何に対して自信があるか。どう見られたいのか。

私はクリスチャンでありプロテスタント派の教団員なので、仏教的価値観は日々の習慣の中にふっと現れてしまう程度です。
他の多くの日本人に対して(その人が無宗教を主張しているとしても)持っている死に対しての感覚が少しズレている事を自覚しています。

私は生きるとは醜いと感じています。そして死は洗練された美しいものとも感じています。

人は脂に塗れ、頭蓋を変形させながら生まれます。より良い群れの形成の本能に基づき弱者排斥を是として働き、そして死にます。

死は恐ろしい程に平等です。そこに行き着くまでの苦しみや罪、執着から次の段階にステージを強制的に切り替えてしまいます。

すなわち生とはゴールに向かって進むレースではなく、いつか爆ぜる爆弾を持って密林を迷い歩く様なものです。

では、生きる意味とは全く無いのでしょうか。死ぬのが嫌だから生きているのでしょうか。
私は自分自身の視点からそれを観測するのは難しいと思います。

例えば微生物は生きていて無意味でしょうか。彼らは死体を分解し自然に返します。木々や草は?彼らは二酸化炭素を吸収して酸素を発生させます。そして多くの動物の食物になります。
ではウイルスは?これを生物として見るのは難しいですが、少なくとも社会を変動させる程の意味を持っていました。

これは人間社会から見ての意味付けですからあくまでも作用の一端に過ぎません。
しかし生きるとは良い意味であれ悪い意味であれ他者に影響を与える生き物です。

私は自分自身が全く良い人間であるとは思いません。しかし私自身の生きた価値観は他者に影響を与えて0.001%以下とは言え、次の世代の社会をより良いものとする進化の礎に混じることになりましょう。

ならば明日、人類が滅びてしまうならば私の生きた意味は無いのでしょうか。
おそらく人間社会的意味は無いでしょう。
しかしそれは人間種に洗練された死が訪れただけのことです。

ならば私自身において、生きるとは。
私は何者でもありません。しかし神を信じ、苦しみ、心躍らせ、エネルギーを発散し、悩み、笑い、涙を流します。
これらは私の生きている証であり、自分が生きていると自覚している認識の素です。

これを絶やさぬようにする。これが私の生きる意味です。

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