色んな人がいる。

京王線のジョーカーから2ヶ月後、今度は西梅田にジョーカーが現れました。
彼ら二人の共通点は「無差別」だったということです。
放火犯の狙いが多くの人を巻き込みたかったのか、それとも病院を巻き込みたかったのか、その焦点はわかりませんが、彼らのメッセージを僕らなり(一般大衆として)の立場で考えてみましょう。

まず京王線のジョーカーはそれこそ映画ジョーカーに憧れています。
彼はどれほど映画好きだったのでしょうか。
その根拠もなく詳細を断言はできませんが、大枠を掴むところによると、「舞踏家型」と思われます。
彼は自分の手に凶器を持ち、更に人を刺していながら自らを傷つける事はしませんでした。
自害というのが如何に惨めな様か、というのを意識していたのでしょう。

彼が逮捕直前に電車のシートでタバコを吸う姿からもそれがわかります。
彼は映画の主人公で悲劇のヒーローではありません。彼自身の等身大、いえ、できる限りの表現をしてみせたのです。
刹那的で衝動に駆られた幼稚な虚栄心。
人生の辛さ、惨めさの本当の部分を直視しないロマンティシズムを持っています。

一方で放火犯の方はどうだったのでしょうか。
彼は精神科に通っています。
一体どんな症状でしょうか。不眠症?鬱症状?どちらにせよ彼は自分を舞踏家のようにステージに上げてはいないでしょう。
単純に死を求め、また孤独な死を恐れ「殉職者」を集めたのかもしれません。
彼が阿鼻叫喚のフロアで一酸化炭素に取り巻かれながら考えていた事はなんだったのでしょう。
おそらく利己的な解放感に浸っていたはずです。

経済格差の拡大で貧困層は幼稚に、利己的になっていきます。それは当然の事です。
この様な犯罪を防ぐには、どうすべきか。
勿論、野放しにしておいても構いません。しかし世間は感情で動きます。
どうか日本がこの鬱屈した抑圧社会からテロリストの温床を生み出さないことを祈っています。

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