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【小説】時の砂が落ちるまで 第3話「首飾りが招くもの」

 下校時間を告げるチャイムが鳴ると、ゆかりは鞄を掴んで教室を出た。周りのざわめきと靴音を耳に吸い込みながら、うきうきと校舎を出る。
「ゆかりさん」
 校門を過ぎたところで後ろから呼び止められた。一人の少年が立っている。
「え? は、はい」
 ゆかりは戸惑った。この子とどこで知り合っただろう。まじまじと見つめようとするも、恥ずかしくなってつい目を逸らしてしまう。
 大人しそうな少年だった。ゆかりと同じくらいの身長で、学ランを着崩さず全てのボタンを留めている。前髪を斜めに流し、白い肌には傷一つなく、切れ長の瞳と薄い唇がどこか儚げで。少し風に当たっただけで消えてしまいそうなほど、少年は美しかった。
「ゆかりさん。お久しぶりです」
 透き通った声が話しかけてくる。
「え? えっと……どこかで、会いましたっけ」
「ええ。中学生の時以来ですね」
 中学生。その言葉を聞くと、ゆかりの胸がほんの少しだけ締め付けられて苦しくなる。
「あ……そ、そうだっけ」
「ええ。お元気そうで何よりです」
「うーん……ごめん、思い出せないや。名前、何だっけ?」
しまと申します」
 名字を聞いても心当たりがまるで無い。誰だっけ。悟られぬよう記憶を辿っていると、無意識のうちに表情に出ていたのだろう。島と名乗った少年が微笑んだ。
「覚えていませんよね。前にお会いしたのも少しだけですし……いきなり声をかけてしまって、すみません」
「う、ううん。大丈夫……私も、すぐに思い出せなくてごめん」
「良いんです。また機会がありましたら、一緒にお話しましょうね」
 薄い唇に浮かんだ柔らかい笑顔につられ、自然とゆかりの口角も上がる。
「うん! じゃあ、また今度」
「ええ。またお会いしましょう」
 そう言葉を交わして別れ、少し歩いたところでなぜか微かに違和感を覚えて振り向く。少年の姿は、もう無かった。

 何だったんだろう、あの子。ぼんやりとそう考えながら、ゆかりはいつものアンティークショップに向かった。ほのかに漂う焦げた香りも、毎日続けて嗅いでいると少しずつ慣れてくる。扉を開けると、カウンターに立つ紫苑と椅子に丸まるミヤが目に入った。
「あ、いらっしゃい! 今日も来てくれてありがとう。さ、座って座って」
 ゆかりは紫苑に促されてカウンター席に座った。クーラーが効いているのか、店内はいつもひんやりとしていて心地良い。
「何か冷たいもの飲む? アイスティーしかないんだけど……」
「は、はい! お願いします」
「オーケー、じゃあ今淹れるね」
 紫苑は戸棚から繊細な装飾が施されたティーポットと透き通ったグラスを取り出した。スイッチを入れたケトルの水が沸騰すると、ポットのティーバッグに湯を注ぐ。
「最近、暑くなってきたね。もっと飲み物の種類増やそうかな……あ、お金なら払わなくて大丈夫。サービスでやってるから」
「紫苑、客にサービスし過ぎてるんじゃないか? そんなんじゃ儲からんぞ」
 ミヤが面倒くさげに身体を伏せながら言う。
「良いんだよ、別に儲け目当てでやってるんじゃないし。ここに来てくれるお客さんが楽しい時間を過ごせるのが、一番大事なことなんだよ」
 しばらくして、氷を入れたグラスに明るい色の紅茶が注がれ、スプーンでゆっくりと混ぜられる。そして程良く冷えたアイスティーが、ゆかりの前に差し出された。
「はい、お待たせ」
「ありがとうございます! いただきます」
 グラスに口を付け、アイスティーを喉に流し込む。爽やかで、甘さ控えめなちょっぴり大人の味。すぐ飲み終えてしまうのが惜しくて、何度もグラスを傾ける。
「はぁ……美味しかったです」
「良かった。ふふ、すごく美味しそうに飲んでくれてたから、私も飲みたくなってきちゃったな」
 よし、飲んじゃおう、と紫苑はグラスをもうひとつ取り出し、紅茶を注いで飲み始めた。
「ん、美味い! やっぱり良いなぁ、アイスティー」
 紫苑がグラスから口を離し、幸せそうに息を吐く。それを眺めていたゆかりは何気なく視線を移し、ふと、カウンターの端に置かれた金色のネックレスに目を留める。そのネックレスには緑色の大きな宝石が付けられており、シャンデリアの明かりに照らされ虹色の光を放っている。
「紫苑さん、それって……?」
「ん? ああ、このネックレス? これね、新しい商品として仕入れたものなんだけど……」
 紫苑はほんの少し、表情を曇らせた。
「お客さんにこんなこと言うのもなんだけど……商品として売ろうかどうか、迷ってるんだよね」
「え……こんなに綺麗なのに?」
「うーん、前の持ち主の念は消えてるし、売っても大丈夫だとは思うんだけど……万が一、買ってくれたお客さんに何かあったら嫌だなって」
「何かあったら……って、もしかして」
 ゆかりはもう一度ネックレスを凝視する。宝石の虹色の光が、波のように揺らめいた。
「……いわくつきって、ことですか?」
 問いかけに、紫苑は目を伏せた。
「……そう、なんだよね……」

 ゆかりと紫苑は、カウンターに置かれたネックレスを覗き込んだ。
「綺麗な宝石……」
「オパールっていう石だよ。石自体には何も無いんだけどね……このネックレスの持ち主の周りで良くないことが起きて、気味が悪いというんで人から人へ渡ってきたらしいんだ。ある人はストーカー被害に逢い、ある人は毒を盛られそうになり。前の持ち主もこれを買ってから家に泥棒が入って、金目の物が盗まれちゃったんだって」
「このネックレスは、盗まれなかったんですか?」
「盗まれたんだけど、持ち主の元に帰ってきたらしいよ。このネックレスだけね」
 では後の「金目の物」は? ゆかりが尋ねると、紫苑は「うーん……よく分かんないけど、盗んだ人が売っちゃったんだと思うよ。盗んだ物を家に保管しててもしょうがないだろうし」と答えた。
「そうなんですね……こんなに綺麗なネックレスなのに、そう聞くとなんか怖い……」
「それだけじゃないよ」
 紫苑の声と共に、金色のネックレスが妖しげに瞬いたような気がした。
「今までの持ち主を襲ったストーカーも、毒を盛ろうとした人も、持ち物を盗んだ人も、みんな後で身体のどこかに怪我を負ってるんだよ」
 ゆかりは小さく息を呑んだ。
「な、なんで……?」
「分かんない。しかも、その人たちはみんな、持ち主の知り合いだったらしいんだ。知り合いに悪意を持って狙われるなんて、怖いったらありゃしないだろ? だからこのネックレス、売ろうかどうか迷ってるんだよ……お客さんに何かあったら心配だからね」
 ゆかりは思わずネックレスから距離を取る。傍らで聞いていたミヤはくだらなさそうに目を背ける。冷たく重い空気が店内に漂い始めたその時、出入り口の扉が開いた。
「あ、い、いらっしゃい! アンティーク・ロックワイズへようこそ!」
 紫苑が声をかけると、白いフォーマルワンピースを着た若い女性が入ってきた。棚に並んだ人形や食器を見回して目を細める。
「やっぱりここ、アンティークショップなんだ……へぇ、素敵……」
「アンティーク、お好きなんですか?」
「はい。なんとなく、憧れがあって……歴史のあるものに、新品よりも魅力を感じるんです」
 そう楽しげに語る女性の視線が、カウンターに置かれたネックレスに注がれる。
「えっ凄い、綺麗……」
 ハイヒールを履いた足がネックレスに向かって歩み出す。紫苑の表情が強張った。
「あ、お客様……すみません、そちらのネックレスは、まだ」
 足が止まる。女性は様々な方向からネックレスの宝石を見て、反射する光の移り変わりを楽しんでいる。
「これ、なんという宝石なんですか?」
「……オパールです。見方によって色が変わるのが、この石の特徴なんですよ」
「へぇ……良いなぁ、素敵。このネックレス、おいくらですか?」
 紫苑は言葉に詰まった。いわくつきのネックレス。客に降りかかる不幸を恐れ、まだ胸を張って売ることができない。しかし、この客はネックレスを見て瞳を輝かせている。そのうえ、鞄から財布を取り出し始めていた。
「実は今日、彼氏とデートなんです。奮発するつもりでたくさんお金持ってきたので、これを付けて行ったらきっと彼も喜ぶかなって」
「え、ええと……すみません、こちらはまだ商品として販売していないんです」
「え、そうなんですか? 綺麗なのにな……」
 女性の顔が曇る。紫苑はきちんと理由を説明し、いわくつきだということを告げた。
「……暗い思い出がたくさん詰まったネックレスなので、彼氏さんとのデートという楽しい一日には、あまり似つかわしくないかもしれません……」
「そう、ですか……うーん、でも」
 女性はネックレスを見つめ、思いついたように呟いた。
「今のお話を聞く限りだと、いわくつきというより、悪い人から守ってくれているように感じられたんですけど……」
「え?」
 紫苑とゆかりは目を丸くした。
「だって、そうじゃないですか? 持ち主の知り合いが悪い人だって暴いて、持ち主を守ってくれるんだと考えたら、むしろ持ってた方が良いネックレスなんじゃ……」
 知人の悪意を暴き、その悪意から持ち主を守るもの。恐ろしさが際立っていたいわくつきのネックレスも、見方を変えればそんな役割を担っているのかもしれない。しばらく考え込んでいた紫苑は頷いて、まだ商品化されていなかったそのネックレスを、代金を取らず「譲渡」という形で女性に渡すことにした。
「良いんですか? 貰っちゃっても……」
「良いんですよ。このネックレスもきっと、あなたに気に入ってもらえて喜んでいると思います」
「ありがとうございます……! やったあ」
 女性はさっそくネックレスを身につけ、胸元にオパールを輝かせながら花開くように微笑んだ。
「デート、頑張ってきます!」

 女性が店を出ていくと、紫苑は小さくため息を吐いた。
「あのネックレス、そんなに怖いものじゃないのかもね……喜んでくださるお客さんがいて良かった」
 ゆかりも頷き、一緒に肩を撫でおろしていると、ミヤがのそりと起き上がって口を開いた。
「そもそも、あの首飾りから悪い気なんて何も感じなかったぞ。むしろ強力なお守りとして売れるタイプだ。お前らが勝手に怯えてただけじゃないか」
「う……そ、そうかも。ごめんね、ネックレスさん」
 紫苑は少し申し訳なさそうに笑ってみせた。

 ぶーっ、と鞄の中のスマホが鳴る。
「あ、すみません。もう五時半だし、帰らないと」
「オーケー。いつも来てくれてありがとね」
「明日も、また来ます!」
「ふふ、じゃあ飲み物の種類増やしておかないとね」
 紫苑が扉を開ける。眩しさに目を細めるゆかりの頬を、生温かい風が撫でていく。
「今日もありがとうございました!」
「こちらこそ! また遊びにおいで」
 扉が閉められる。赤と青と橙の絵の具を溶いて混ぜ合わせたような、昼から夜へと移る間の、不思議な色の空の下。ゆかりは長い影を伸ばしながら、自宅への道を歩いていった。

                 〈つづく〉

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