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【小説】時の砂が落ちるまで 第1話「思い出を売る店」

 下校時間になると、花里はなざとゆかりは軽い足取りで校門を出て、懐かしいパン屋に向かった。かつてそこで買ったイチゴメロンパンの甘い味が、口の中に広がっていく。
 幼い頃はよくなけなしの小遣いを握りしめ、イチゴメロンパンが売り切れる前に店に駆け込んでいた。しかし高校受験の勉強が始まってからは、そのパン屋に行くことがめっきり減ってしまっていた。
 七月に入り、町の気温はだんだんと高まっている。高校生活にも少し慣れてきたが、これから新しい友達がどれくらいできるのか不安だ。今のところ、同じクラスの中で友達が一人できているが、他のクラスメイトとはうまく馴染んでいけるだろうか。新しい環境の中で、良好な人間関係を築けるかどうか。今はそれが一番気になっていた。
 まぁ良いや、考えを巡らせるのはイチゴメロンパンを食べてからにしよう。重くなりつつあった足取りが軽くなる。そうして懐かしい店の前まで来たゆかりは、目を丸くした。閉じられた扉に張り紙を見つけて近づく。
「……閉店⁉︎ 嘘ぉ!」
 傾いた日の、橙の光が窓を照らす。ガラスの向こうには、もぬけの殻になった暗い店内が見えた。
 わざわざ寄り道したのに。ゆかりはがっくりと肩を落とし、元来た道を戻ろうとして、はたと足を止めた。
 首輪を付けた一匹の猫が、こちらを鋭く見つめている。猫は白と黒のハチワレ模様で、左右で目の色が違う。金と銀の瞳に思わず見惚れていると、猫はふいに方向を変えて歩き出した。二股に分かれた長い尻尾が揺れる。
 猫又だ! ゆかりはぱちぱちと目を瞬かせ、必死に驚愕と興奮を抑えた。
 それにしても、この猫又はどこから来て、どこへ行くのだろう。どうせ寄り道する気で来たんだ、たまには好奇心に身を委ねてみるのも良いかもしれない。ゆかりは勇気を出して、そっと猫の後をつけてみた。
 猫は緩い坂を上り、細い路地を抜け、いくつもの角を曲がっていく。なんとか後を追っていくと、路地に面した建物の扉を慣れた手つきで開けて入っていく猫の姿が見えた。
 ゆかりは扉の前で立ち止まった。そこは小さな雑居ビルの一角になっており、微かに焦げ臭い香りが鼻をつく。扉には「OPEN」と書かれた札が掛けられ、その横に「思い出の品売ります」と書かれたブラックボードが掲げられている。扉の横の看板には、筆記体で「Antique Rockwise」と刻まれている。
(アンティーク・ロックワイズ……アンティークショップなのかな?)
 ゆかりはお洒落な店名と「思い出の品売ります」という謳い文句に惹かれ、恐る恐る扉に手を掛けた。

 店内は薄暗く、落ち着いた紫の壁紙と黒いカーテンで彩られていた。天井のシャンデリアがぼんやりと灯っている。背の高い棚には年季の入った人形や食器、アクセサリーが並べられている。どこか懐かしさを感じながら、白と黒のタイルの上を歩いていくと、正面のカウンターの奥から青白い光が差し込んでいるのに気がついた。
 そこにはゆかりの身長をはるかに超える、巨大な砂時計が飾られていた。青い砂が星のように煌めきながら、さらさらと流れ落ちている。ゆかりはその美しさにしばし見惚れていた。
「いらっしゃい。アンティーク・ロックワイズへようこそ!」
 びくりとして声の方を見る。カウンターの横の扉の前に、美しい女性が立っていた。小さなシルクハットをちょこんと被り、黒いシースルートップスとズボンを身につけている。白い肌に長く伸ばした黒髪、薄く塗った赤いリップがよく映えていた。
「あ、ごめんごめん。びっくりさせちゃった? 私、ここの店主なんだ。気軽に紫苑しおんって呼んどくれ」
 紫苑と名乗った女性はカウンターに立ち、こっちこっち、と手招いた。ゆかりは戸惑いながらも座席に座り、紫苑と向かい合った。
「お客さん、初めてだよね。思い出の品のリクエストがあるなら応えるよ」
「え、えーっと……思い出の、品って?」
「この店ではね、お客さんがもう一度見たい、食べたいって思った物をリクエストできるんだ。アクセサリーもお人形も、料理だって何でもござれ! リクエストしてくれれば提供するよ。そうね、例えば……既に閉店してしまったお店の人気商品、とか」
「え⁉︎ ど、どうして……」
 心を見透かしたような紫苑の言葉に、ゆかりは少し怖くなった。紫苑は紫色のアイシャドウが引かれた目を細め、いたずらっぽく笑ってみせた。
「はは、そんなの顔見りゃ分かるよ。なんだか残念そうな顔してたしさ」
 表情からそこまで分かるものなのだろうか。ゆかりは訝しげに紫苑を見つめ返した。
「そんで、どうする? リクエストしとく?」
「あ、えーと……出来れば、リクエストしたいんですけど……」
 お店のお洒落な内装からして、きっと高いんだろう。そう考えていると。
「大丈夫。初めてのお客さんだし、タダにしとくよ」
「え……い、いいんですか⁉︎」
「いいのいいの。この店に来てくれただけで嬉しいもの」
 紫苑は手をひらひらと振って笑った。その気取らない口調と明るい笑顔に、ゆかりはいつしか惹かれ始めていた。
「そ、それじゃあ……イチゴメロンパン、お願いします」
「オーケー、任せて」
 黒い手袋に包まれたしなやかな指で丸を作り、紫苑はカウンター横の扉の奥に入っていった。

 十分も経たないうちに、紫苑が戻ってきた。
「お待たせ! はい、ご注文のイチゴメロンパンです」
 カウンターに置かれた皿には、懐かしい薄桃色のメロンパンが乗っていた。
「えっ……すごい!」
 ゆかりは目を輝かせた。表面に深く入った網目状の模様と、ふわりと漂うイチゴの甘い香り。どこからどう見ても、あのパン屋のイチゴメロンパンだ。
「焼きたてのうちにどうぞ」
 紫苑に促され、大きな口を開けてかぶりつく。口いっぱいに広がる優しい味。ゆかりは目を閉じてパンをゆっくりと噛みしめた。そして幸せの味を喉の奥へ飲み込み、紫苑にお礼を言おうと目を開けた。
「っ⁉︎」
 景色が変わっていた。そこはアンティークショップのカウンター席では無く、あのパン屋のイートインスペースだった。目の前の大きな窓ガラスから、夕日の光がきらきらと差し込む。焼かれたばかりの香ばしいパンの香りが流れてくる。
 そうだ、この景色。イチゴメロンパンを買いに行った時はいつも、ここでこんな風に焼きたてのパンを食べていたっけ。胸の奥から何か温かいものがじわじわと溢れ出し、両目を濡らしてこぼれ落ちていく。泣くつもりなんて、無かったのに。
 ゆかりは涙を流しながらイチゴメロンパンを食べ、最後の一口を口に入れた。

 パンのかけらを飲み込むと、景色がぼんやりと薄れていき、アンティークショップのカウンター席に戻っていった。目の前で紫苑がティッシュを差し出す。
「はい。顔が涙とお砂糖でぐちゃぐちゃになっちゃってるよ」
「あ……ありがとうございます」
 ティッシュを受け取って両頬と鼻、口元を拭く。ここはなんて不思議で、素敵なお店なんだろう。ゆかりは胸の奥にじんわりと温かさを感じながら、砂糖の粒が煌めく皿を紫苑に返した。
「ごちそうさまでした」
「お、全部食べてくれてる。ありがとう! この店のサービス、こんな感じなんだけど……気に入ってもらえたかな?」
「は、はい……!」
「そう、良かった」
 紫苑は嬉しそうに微笑んだ。少し顔を動かすたびに、両耳に付けた青いイヤリングが煌めきながら小さく揺れる。
 その時、ぶーっ、と鞄の中でスマホが震えた。取り出してみるとロック画面の時刻が五時半を示している。もっとこの店にいたいが、もう帰らないといけない。
「すみません、もう帰らなきゃ」
「そっか。もし良かったら、また来てくれると嬉しいな」
「はい!」ゆかりは目を輝かせて頷いた。
「絶対、また来ます!」
「いつでも待ってるよ」
 紫苑はカウンターから出て、ゆかりを出入り口の扉まで見送ってくれた。扉を開けると、生温かい風が頬を撫でてくる。
「じゃあ、気をつけて帰るんだよ」
「はい! ありがとうございました!」
「こちらこそ、来てくれてありがとね」
 お互いに手を振って、ゆっくりと扉が閉められると、ゆかりは爽やかな気持ちで歩き出した。
(また明日も、ここに来てみよう)
 橙色に染まった町に軽い足音が響く。先程まで抱いていた新しい環境への悩みも、もうさっぱりと消えていた。

                 〈つづく〉

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