見出し画像

【小説】時の砂が落ちるまで 第2話「最後にひとつ、オムライスを」

 次の日。学校の授業が終わると、ゆかりはもう一度あのアンティークショップに足を運んだ。猫の後を追った昨日の道筋を思い出しながら、坂を登り、見覚えのある雑居ビルの路地裏に入る。そして、微かに鼻をつく焦げた香りを感じながら、ゆっくりと扉を開いた。
「いらっしゃい! お、また来てくれたんだね。ありがとう!」
 カウンターの奥から店主の紫苑が声を掛ける。こんにちは、と軽く頭を下げると、「さ、入って入って」と優しく促される。店内に足を踏み入れ歩み寄った瞬間、カウンター席に丸まるハチワレ模様の猫が視界に飛び込んできた。
「あ、昨日の!」
 二股に分かれた長い尻尾を揺らし、猫は大きくあくびをした。紫苑が手のひらで指して紹介する。
「この子、うちの愛猫なんだ。ミヤって名前」
「ミヤ……男の子、ですか?」
「うん。マイペースでいろんなことに文句言うんだけど、結構良い奴だよ。仲良くしてやってね」
「はい! ミヤくん、よろしくね」
 ゆかりは屈んで挨拶をした。ミヤは鋭い目でこちらを一瞥し、興味無さげに顔を戻した。
「そういえばさっき、『昨日の』って言ってたけど……」
「はい。昨日、ミヤくんがこの店まで案内してくれたんです」
「へぇ、そうなんだ」紫苑はミヤに微笑みかけた。「珍しいじゃないか。ありがとね、ミヤ」
「別に。案内したつもりなど無い」
 声が面倒くさそうに答えた。
「え? しゃ、喋って……え⁉︎」
「もう、ミヤはいつも素直じゃないなぁ……あ、ごめんごめんびっくりしたよね。この子、お喋りなんだ」
「びっくりした……喋る猫って本当にいたんだ」
 ゆかりが恐る恐るミヤを撫でようと手を近づけると「触るな!」と毛を逆立てて威嚇される。
「ご、ごめんなさい……」
「全く、礼儀のなってない小娘だ」
「こらこら、お客さんにそんなこと言っちゃダメだよ」
 紫苑がたしなめるが、ミヤはふん、とそっぽを向く。
「ごめんね、こんな奴だけど仲良くしてやってね」
「は、はい……」
 本当に仲良くできるだろうか。ゆかりは自信なく頷いた。

 唐突に、出入り口の扉が開く音がした。
「いらっしゃい! アンティーク・ロックワイズへようこそ」
 紫苑が呼びかけると、カウンターに一人の老人がやってきた。ベージュのハンチング帽と薄手のコートを身につけ、穏やかな表情を浮かべている。
「あのう、ここで思い出の料理が食べられると聞いたのですが……」
「はい、食べられますよ。どうぞ、こちらにお座りください」
 紫苑は優しく微笑みながら、老人をカウンター席に案内した。ゆかりは端の席に移動し、紫苑と老人の会話を見守っていた。
「お客様、どんな料理をご希望でしょうか?」
「ええと……妻がよくオムライスを作ってくれたんですが、もう食べられなくなってしまうのが寂しくて……でも、わがままを言って妻に迷惑を掛けるのも申し訳ないので……」
 老人の笑顔が少しずつ曇っていく。紫苑はその胸中を察するように、うんうんと頷いた。
「そうですね……では、これから奥様のオムライスをお作り致しますね」
「はい……! どうか、よろしくお願いします」
 老人は嬉しそうに目を細め、深く頭を下げた。
「調理のためにだいたい十分ほどお時間を頂戴致します。少々お待ちくださいね」
 紫苑は戸棚からマグカップを取り出し、コーヒーを淹れて老人に差し出した。それから一礼し、カウンター横の扉の奥に入っていった。

 十分後、紫苑が戻ってきた。手に持った皿にはつやつやと輝くオムライス。温かい湯気が漂っている。
「お待たせしました。ご注文のオムライスです」
 老人の表情が、一瞬にして明るくなった。
「ああ……ありがとうございます……!」
「出来たてのうちに、お召し上がりくださいね」
「はい……! いただきます」
 銀のスプーンを手に取り、老人はゆっくりとオムライスに切り込みを入れる。そして柔らかい卵とチキンライスをすくい、口の中にほろりと入れた。
「……んん……」
 幸せそうな声が漏れる。良いなぁ、とゆかりが眺めていると、ふいに店内が姿を変えていった。
 清潔感のある、白い壁のリビングルーム。温もりのある木のダイニングテーブルの上で、食べかけのオムライスが湯気を立てている。
「お父さん」
 キッチンの方から聞こえる声に振り向いた老人は、目を丸くした。
「……幸恵ゆきえ……!」
 白髪混じりの髪を後ろで結んだ妻が、優しく微笑む。
「ごめん……ごめんよ……っ」
「あらあら。どうしたの? 何か嫌なことでもあった?」
「う……っ……や、何でも」
 老人は声を詰まらせながら、オムライスを食べた。
「ありがとう……幸恵のオムライス、とっても美味しいよ」

 皿がすっかり空になると、リビングルームはアンティークショップの店内へと戻っていった。
「本当に、ありがとうございました」
 老人は椅子から立ち上がり、紫苑に深々と頭を下げた。
「いえいえ。お役に立てたなら幸いです」
 紫苑はにっこりと笑って、食器をシンクの上に置いた。
「これで、もう思い残すことは……なんにもありません……」
 ゆかりは目を見張った。幸せそうに微笑む老人の姿が、だんだんと霞んでいく。そしてとうとう、霧のように溶けて消えてしまった。

「時々ね。こんなお客さんが、来るんだよ」
 呆然としているゆかりに、紫苑が言った。
「お……おばけって、こと?」
「うん。でも、怖くなかっただろ?」
「う、うん……」
「びっくりさせちゃってごめんね。うちの店、悪霊以外は受け入れてるから……でも他のお客さんにはなにもしないし、そんなに怖がらなくて大丈夫だよ」
 優しい声だった。なんだか安心して、ゆかりはこくんと頷いた。それから意を決して話しかけた。
「あの……紫苑さん」
「ん、何?」
「私、毎日ここに来ても良いですか?」
「え、毎日?」
「はい。このお店、気に入っちゃったんです。とても素敵なお店だし、いつも通る道の近くにあるので、学校からの帰りに毎日寄っていこうかなって……」
 紫苑の顔がぱっと輝く。一方、椅子の上で丸まっているミヤは不服そうに顔を歪めた。
「チッ、迷惑で仕方がない」
「良いじゃないか。うちの常連になってくれるんだよ。しかも毎日来てくれるんだって! しっかりおもてなししなくっちゃ」
 紫苑は嬉しそうに微笑みかけた。
「ここを気に入ってくれて本当にありがとう。いつでも遊びにおいで。今日みたいに他のお客さんが来ると思うけど、気にしないで帰る時間までゆっくりくつろいでいってね」
「! はい……! ありがとうございます!」
 ゆかりがぺこりと頭を下げた瞬間、鞄の中のスマホに表示された時刻が目に入った。もう五時半だ。
「あ、もう帰らないと……紫苑さん、今日はありがとうございました。明日、また来ます!」
「こちらこそ、来てくれてありがとう! いつでも待ってるからね。入り口まで送ってくよ。忘れ物ない?」
 扉を開けて足を踏み出すと、昨日よりも温かい風が吹き抜ける。
「じゃあ、気をつけて帰るんだよ。ほら、ミヤもご挨拶」
 紫苑がカウンター席を振り返る。ミヤは面倒くさそうに大きなあくびをした。それを見てふふ、と二人で顔を見合わせる。
「ミヤ、いつもあんな感じなんだよ」
「そうなんですね」
「これからも仲良くしてやってね」
「はい! じゃあ、また明日」
「明日ね」
 扉がゆっくりと閉まる。ゆかりは路地裏を出て家路についた。
 この店を見つけてから、次の日が来るのがもっと楽しみになったような気がする。ゆかりは頭の中でぼんやりと、そう考えていた。

                 〈つづく〉

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?