考えるため、解を得るための手段として「書くこと」がある: 20歳の自分に受けさせたい文章講義
■はじめに
自分はもう30歳だけど、ほんとにもっと早い時期に読みたかった、と思わされる良い本でした。
この本の根幹にある、「書くこととは、考えることである」、「書く技術で世界を見る目が変わってくる」という部分が好きです。
印象に残ったいい部分があり過ぎて、まとまらない記事になってしまいました。
■印象に残ったところ
◎書く=考える
これには大いに共感しました。
考えるための手段として書くことがあると捉えて、
「考えるためには書かないとだめだ!」とより強く思いました。
最近文章を書く機会が増えました(意識的に増やしている)。
そんななかで思っていた、書くことで自分の思考が整理される感覚があったこと、テキストメッセージではなく面倒くさがって話しかけたときの方が考えが浅く問題の解決にうまく行かないことが多かったこと、などの経験から感じていた「書くこと」=「考える」ということは納得です。
なにか仕事でも人生でも問題にぶち当たったとき、「うーん」とただ考えても答えはでないし気持ちも晴れない。
しかし、面倒くさがらずに時間を書けてでも自分の頭にうかんでいるものを言葉にして書き出してみると次に何をすればいいのかが明確になる感覚が大いにあります。
物事を深く考えているから文章を書ける訳ではなく、文章を書いているから物事を深く考えることができる。
頭が良いから文章をかける訳ではなく、文章を書くから頭が良くなっていく。
理解しているから文章を書ける訳ではなく、文章を書く過程で理解が進み書くことで理解できる。
◎接続詞を意識するだけで、文章は論理破綻しにくくなる。
接続詞を入れてみて不自然かどうかを確認することで、論理破綻しづらくなる。
接続詞を入れてみて不自然であれば、論理的な文章になっていない可能性が高い。
なので、論理的かどうかをチェックするために接続詞を入れてみる。チェックしたあと接続詞がなくても伝えたいことが伝わるのであれば入れた接続詞は削除しても構わない。
◎読点がどこに入るかによって、印象は大きく変わる。
句読点は「1行にひとつ」をルールにする。
読点をいつもなんとなくで入れてしまっていたけど、この読点の場所で全く意味が異なってきてしまう。
なので、意識的に読点を入れる場所を考える。読み返してみて意味が通っているかを常に意識する。
◎論理を固めて断定する
確かに「断定」の強い主張は、それだけで魅力的になりやすい。変に反論を恐れて断定の弱い意見には誰にも刺さらない主張になる。
なので、論理で武装しつつ断定をする文章を心がていきます。
◎10年前の自分、特定の”あの人” に向けて書く
「20代の社会人」などと枠を大きく広げた多数派を対象として書いてしまうと結果的に誰にも伝わらない文章になってしまう。
なので、たった一人を想定してその人を思い浮かべながら書くようにしようと思いました。
自分の友人とか知人を想定して書いてみる。その方が、「その人に伝えたい」というマインドが働いて熱量高く書くことができそうです。
◎自分の”嫌い”を掘り下げて本を読む
この考え方は、「書き手として」という文脈以外でも人生や自分の価値観を明確にしていく部分でも生きるかもしれないと思いました。
自分が「好きなこと」を探すより「嫌いなこと」「嫌なこと」を言語化しておくと自己理解が進んでいくかもしれない。
◎論理的な文章は「主張」「理由」「事実」で構成される
言われれば当たり前だったけど、そこまで意識してなかったのでこれは常に意識して書いて行きたいです。
「主張」「理由」「事実」が全て含まれているか
ツッコミ(反論)ができるかどうか
◎”面倒くさい細部” を書くことで読者に読まれる文章になる
情景を思い浮かべてもらいながら読んでもらうためには、具体的なことを書いた方がいいはずというのは確かにそうかも、と思いました。
ただ、冗長になってしまわないかどうかと葛藤しながら書いていくことが必要になりそう。
◎「なにを書くか?」ではなく、「なにを書かないか?」を決める
なにを書くかでいつも迷ってしまうし、テーマが決まらずにモヤモヤすることが多いのでこれは試してみたいと思いました。とにかく紙に書き出してみる。
■さいごに
「とにかく書こう」「書き続けよう」と改めて思わされました。
書くことで人生は好転していくはず、自分の人生を面白くしていくために速度を上げて「書くこと」から逃げずにいきます。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?