【実録】事件のあらまし8月5日【備忘録】
前回の記事はコチラ
いつものように6時過ぎ頃に目が覚める。だけど7時までは布団にいなくちゃいけない。ボーっとしながら7時を迎え点呼と共に歯を磨いたり、顔を洗ったりする。
私は潔癖症とは思っていないが、歯磨き粉と固形石鹸は共用する。これは生理的に嫌だったけど、もう慣れちゃったなぁ。
ここを出られるまであと2日だ。最後の日に検事調べを受けるのかと思っていたら、どうやら違うようで本日に検事調べを受けて起訴されるかどうか決まるようだ。
もちろん起訴となれば、仕組みとしては拘置所送りとなってここを出られるんだけど、雑談を小耳にしていると現実的には留置場に留まるケースが多いそうな。拘置所は人が溢れかえっているそうだ。
拘置所は法務省の管轄で留置場は警察の管理。これが関係しているかどうかは知らないが、拘置所は留置場よりも扱いが厳しく、設備もエアコンがないなど条件が悪いそうだ。
起訴された人が行くわけで、刑の確定まで身柄を拘束されるわけだから仕方ないけど、一定数で冤罪の人もいるんだろうなと思えばやるせない気持ちになる。
一方で留置場は人の出入りが割とあるのだろう。私が初めて入ったときは2名の人が入っていて、私の後に2名が入ってきた。そのうち最初の1名が出て行って、という感じで出会いも別れもなく、ただ通り過ぎていくような感じで日々が過ぎていく。
午前に風呂に入って検事調べで自分の主張をした。もちろん否認。やっていないことを「やった」と嘘を言って整合性が付くとは思えない。例え起訴されても早く出られるオプションのために嘘をつくのは嫌だった。
私は大勢の前で話すことも多いけど、誰かと議論するのはあまり好きじゃない。大学のディベートでは奮わなかったから、今日の検事さんとの話も憂鬱だった。しかし、人生がかかっている!
最悪な事態につながる可能性があったけど、自分の主張は出来たし検事さんにも伝わったと思う。いまはこれで満足だ。
ここでいう最悪は「起訴されて拘置所へ送られて実刑を受けて懲役」だろう。自由を奪われる事に恐怖はない。外でだって自由を謳歌しているわけじゃない。みんな何かの制約の中で精一杯やっているのだから。
突然に長期間に渡って自由を奪われると家族が生活していく場所が奪われ、子供たちにとっては必要のない転校など色々と弊害がある。
そういう意味では「死」が似ているかもしれない。脳梗塞で「死」を身近に意識するようになって思う事がある。
「死」は生きることの選択肢のひとつ。
飛んで火にいる夏の虫も死にたくて飛び込んでるのではない。興奮と歓喜に包まれ死んでいるのだ。人を好きになるという事に明確な答えを持った人はいない。虫と同じように利己的な遺伝子がなせる業であり、単に子孫を残すというプログラムなのだろうか。
愛は愛のためのモノではなく、子孫のためのモノ。そう考えると人を好きになるという気持ちの行き場のなさや達成感のなさは子孫の繁栄という生物の唯一無二の目的に裏打ちされていないせいかもしれない。
「死」は生のひとつなのだ。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?