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順番

「順番違(たが)えたらいけん」これは母の口癖である。わかりやすく標準語に変換すると「順番を狂わせてはダメ」となる。

昭和11年生まれの母には、姉と妹、そして10歳違いの弟がいた。母の父親、つまり私の祖父は戦後すぐに病死したため、祖母と母たちの生活はけっして楽なものではなかった。炭鉱の街、筑豊に生まれた祖母は、明治女らしい気丈さと生真面目さを兼ね備えたクリスチャンで、外働きと裁縫の内職に勤しみ、母達4人の子供を育てた。持っていた着物や装飾品の大半は食糧にかわり、家族全員が「夏も冬も一張羅」という暮らしぶりだったらしい。母の姉は中学校を卒業すると電話の交換手として働いて家計を助け、そんな姉を間近に見ていた母もその齢になれば自分も働くんだと、当たり前のように思っていたと言う。戦争で社会が崩壊し、食べると生きるが同義で、労働力総出で稼ぐ事が当たり前だった時代、人々は一様に働いた。「夢見る間もなかったよ。みんなそうやったけど。」後年笑いながら祖母はそう語ってくれた。一様の対義語が多様だとすれば、ダイバシティ-マネジメントという概念がもてはやされる今日も、あくまでこの時代の延長線上にあることを忘れるべきではないと思う。

母が小学校5年生の夏、祖母は家族全員を連れて、親戚を訪ね、山陰海岸沿いの小さな漁村に泊りがけででかけた。短い休暇を家族そろって過ごすべく、祖母が線香花火や水着と浴衣の入った大きな行李をかかえ、長女が妹二人と幼い弟の手をひいて蒸気機関車に乗った。母のリュックはスケッチブックとクレヨン、そして好物の甘納豆でふくらんでいた。

楽しいはずの家族旅行、しかしそれは母にとってひどく辛い思い出となってしまった。母の姉と妹二人は、母の目の前で、同時に帰らぬ人となった。おぼれた妹と、それを助けようとした姉がともに強い引き潮で沖に流され、救助も間に合わなかったという。

70年以上経った今でも、母はこの夏の出来事がフラッシュバックして、うなされることがある。「ねえちゃん、リン子ちゃん」母は夢の中で、潮に流される姉妹の名を大声で呼び、汗と涙でしとどとなって目をさます。

祖母は、それ以来、海を怖がり、そして憎んだ。私が友達と釣りや海水浴場に行くときは必ず、おびえるように、「行かんほうがええ」と何度も私に言った。

まだ子供だった母は、こうして一家の柱となった。めっきり口数が減ってしまい、引きこもりがちだった祖母を支え、小さかった弟を励まし、家の中でも外でも「元気のよい明るい子」であり続けた。口の悪い大人は「便所の100W」とからかったが、母はそんな声も明るく笑い飛ばした。

中学校を終えた母は地元のバス会社に就職。当時は手動で乗降扉を開け、運賃を収受するために運転手に加えて車掌が乗務する時代で、小柄な母は口金のついた大きな皮鞄を肩掛けに、満員の乗客に押しつぶされそうになりながら働いていたらしい。一方、予科練の少年兵として終戦を迎えた父は、下関に戻った後に実家の農作業を手伝うかたわら大型車両の運転免許を取り、トラックの運転手を経て母と同じバス会社に運転手として採用された。運転手と車掌の組み合わせにもコンビ相性があるらしく、なんとなく馬が合った父と母はやがて結婚。父は煤けた平家を借り、新妻の母と弟もそこに同居する賑やかな新婚生活が始まった。祖母は、亡くなる直前まで「あなたの父さんは本当にやさしい人じゃ。感謝してもしきれんよ」と語っていた。

1960年代に入り、路線バスのワンマン化が進むと、母の仕事は定期バス路線の車掌から観光バスのガイドへと変わった。父がハンドルを握り、母がマイクで観光案内する、というシーンも幾度もあったらしい。遠足や修学旅行の便に乗務する際には、九州や中国四国地方各所の名所や民謡などを事前にずいぶんと勉強したという。(最近になって、当時の母のアンチョコが何冊も出てきた。おそらく20才前後のものであろう。「右手前方をご覧ください」ト書きの文字は見慣れた癖字。でもさすがに筆跡が若々しい。)

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共稼ぎで、留守が多い父と母にかわって、私の面倒は専ら祖母がみてくれた。ご飯をつくり、童話を読んで寝かせつけ、日曜日には黒い半ズボンに白タイツを履かせて、蝶ネクタイを結び、私を教会の日曜学校に連れていってくれた。祖母は私が高校3年生の夏に病に倒れ、闘病の後に2年後に亡くなった。東京に居た私は、最期を見届ける事は叶わなかった。祖母は間際まで私の名を呼んでくれたとあとで聞かされた。

母の弟、15才年上の叔父は私にとって兄のような存在だった。運動が得意で、手先の器用な叔父は、私の憧れであり、何より自慢の大人だった。幼少期から少年期にかけて、私の人格形成に最も大きな影響を及ぼしたのは間違いなく彼である。思春期を迎え、少々扱いにくい子供となった私は、学校では先生や級友とほとんど交わらず、家でも自分の部屋に閉じこもってラジオの深夜放送をイヤホンで聴きふける日々を過ごした。何とか学校には通ったが、授業にも友達にもなじめず、通学自体はかなりの苦痛で、毎日のようにストレスで蕁麻疹が体中にひろがっていた。そんな生活の中で、叔父だけが気の置けない話し相手だった。手作りの真空管ステレオで一緒にビートルズを聴き、仕掛けを工夫して黒鯛(チヌ)を釣りに行き、わけもなく突然涙を流す私の隣で、私の嗚咽がおさまるまで、缶ビール片手にだまって座っていてくれた。やがて叔父が結婚し、二人の子供を授かった後も私たちは兄弟以上の間柄であり、私が上京し、社会人となり、家庭を築いた後もずっとそうだった。叔父や伯父は大勢いたが、「おいちゃん」と呼ぶのはただ一人だった。

札幌に住む私に、叔父の訃報が届いたのは今から20年程前のことだ。正確には叔父が行方不明となり、遺書らしきものが発見されたという母からの電話が第一報だった。半狂乱の母をなんとか鎮め、叔父の家族に電話をかけ、私は携帯電話を握りしめて外に出た。初秋の澄み切った夜空の下、あてもなく国道沿いを歩いた。歩くのではなく、彷徨ったというべきかもしれない。その夜のことはあまり覚えていない。その前後の日々のことも思い出せない。

数日後に、叔父の遺体が海辺で発見された。リュックに石を詰め、バイクで防波堤から海にダイブし、海中を漂ったあげくに打ち上げられた遺体はかなり傷んでおり、身元確認には所持品確認だけでなく、鑑定も行われた。

遺書となったメモには、家族への謝罪が短い文章で記されていたらしい。私は読んでいない。

家族や会社の同僚、だれに聞いても動機はわからなかった。直前の様子も、思いつめた素振りなどまったくなかったという。普段通りの生活を送り、数週間前に華やかに執り行われた長女の結婚式では照れ臭そうにモーニングを着て、注がれる酒を嬉しそうに飲んでいた。そもそも祖母と同じクリスチャンで、週末には教会のボランティア活動にも参加していた叔父が、よりによって自裁するとはとうてい考えられなかった。だから「父さんの遺体やったよ。間違いない。」電話で甥の話を聴いた後も私は信じなかった。

遺影の叔父はいつもの優しい眼差しで、恥ずかしそうに薄く笑いを浮かべていた。私をいつも励まし、見守ってきてくれたその顔に、私は目を合わせられなかった。自分もずいぶんひどい顔をしてたはずだが、やつれ切ったおいちゃんの家族の顔も、まだつらくて見たくなかった。私は無言のまま畳に座り、壁に額を預けるように俯いていた。このまま眠ってしまえば楽だろうな、と思ったその時「修君、ごめんな」叔父の声が耳の奥で聞こえた。私は振り返り、顔をあげて写真を見上げた。張り詰めていた私の心の弦がプツンと切れ、堰を切ったように熱くて重い感情が体の底からあふれはじめた。「おいちゃん」自分の声が喉の奥で響いた。「おいちゃん、なしてか!こりゃいけんよ。絶対いけん。」振り絞るように発した私の声は自分の嗚咽にかき消され、やがて涙が膝の上で震えるこぶしを濡らした。涙は止まらず、私はその場で憚ることなくうっぷして慟哭した。

母は泣かなかった。そのかわり葬儀の間、誰とも口をきかなかった。私とも話さなかった。斎場から戻り、自宅の和室で、和装の喪服を解く母は、まだ話しかけられる雰囲気ではなく、私は隣の部屋で座布団を枕に天井を見つめた。ここ数日うまく眠れてない事を思い出しながら、睡魔が突然現れて、後ろ髪を掴んでグイっと引っ張るように眠りに落としてくれるのを待ち、電灯を消した。やがて襖ごしに母の小さなため息と、「あの馬鹿たれが、馬鹿たれが」とすすり泣く声が聞こえた。両手で顔を覆い、うつむく肩が揺らす母の姿が思い浮かび、その輪郭が滲んだ。睡魔は結局来なかった。

こうして母は姉妹、弟全員を海で亡くした。姉妹を失った遠い昔の海水浴場のことは時折話題にする事はあっても、叔父の事は一切口にしない。その話題に及びそうになると必ず席を外す。私は母の気持ちがわかる。

「順番違えたらいけん。」母の悲しみ、怒り、そして祈りがこもったこの言葉を、私はきちんと受け止め、あとに伝えなくてはならない。繰り返し、繰り返し話して若い者たちに聞かせてゆく。それがいつしか私の口癖となり、彼等から「またかよ」と笑われるまで話して聞かせる。

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【2020年(令和2年)6月3日】

 久しぶりに母さんに会えてほっとしました。お正月以来ですから半年ぶりでしたね。この新型コロナ騒ぎで帰省もままならず、まさに緊急事態宣言の収束を千秋の想いで待っていました。

 まだまだ都内でも新規感染者が2桁となったり、北九州ではクラスターが発生したりと油断はできませんが、日常の生活を少しずつ取り戻すしかないですね。地球規模で人類が試されています。各地の人や国家其々が、自分本位の行動をしていてはこの禍は終わりません。生活や習慣を変えながらゆっくりと平静を取り戻す、ちょっと気の長くなる話ではありますが、こうする他ありません。

 本日時点で世界中の感染者が6,378,237人。死者は380,249人です。日本は累計感染者16,930人、死者数は894人。この統計を見て日本は奇跡的に患者数や死亡数が低いという評価は確かにありますが、これも検査数や検査方法が国ごとに違うので、一概には鵜呑みにはできません。薬もワクチンもまだ無い、という事実から目を背けることもできません。とにかく三密を避け、手洗いやうがいを励行して、祈りながら毎日過ごしましょう。

 下関に帰り、母さんとドライブする度に新発見があります。今回も昔キャンプでよく行っていた吉母海岸(よしもかいがん)近くに毘沙ノ鼻(びしゃのはな)という岬があり、そこが本州の西端であることや、吉見にある水産大学校が農水省管轄の日本で唯一の水産大学校で、卒業生には学士号が与えられることも初耳でした。余談ですが、この水産大学の前身は戦前釜山に置かれていたようです。世界文化遺産にも登録された「和食」。その中心的な素材である海産物を研究する唯一の国立大学校が身近にあるかと思うと少し誇らしい気分になります。

 山口県の山陰海岸は響灘と呼ばれます。もともとは「ひじきなだ」と言われ、万葉の時代からヒジキやワカメなどの海藻を奈良の朝廷に献上してきたそうです。私も子供の頃、海の岩場でワカメやてんぐさを採ったものです。てんぐさは屋根の上に広げてしっかり干して乾燥させます。夏になるとおばあちゃんがそれを一斗缶から取り出し、木綿の晒でこしてところてんを作ってくれました。酢をたっぷりかけて、生姜を刻んでトッピングにして食べると、とても美味しかったです。

国道191号線が走る海岸線には隆起による海蝕岩や奇岩が多く、出入りの激しい入江を縫うように小さな漁港が点在します。穏やかで淡い青色の海が広がる瀬戸内とは違い、群青の海は季節風にさらされて白く波立ち、冬の荒天時には、雲の垂れこめた空と同じような灰色の水面になることもあります。時折雲の切れ間から黄金色の日差しが現れ、輝く槍の様に一直線に海面を貫きます。その景色をじっと見ていると、暗い何物かに魅入られ引き摺り込まれるのでは、と恐怖すら覚えます。山陰の海、響灘はけっして常にフレンドリーな海ではありません。

 家の近くの垢田の海から、バイパスを通って、綾羅木、安岡、吉見の各海水浴場を眺めながら川棚まで走る国道が私のお気に入りのドライブコースです。中学生の頃にはおいちゃんのヤシカのカメラを首にぶら下げ、SL(D51)を撮りにこのあたりまで来たものです。湯玉駅のあたりで、下り機関車はかなりの勾配を登り、もくもくと煙を吐きながら低速走行します。西側な丘の上に陣取ると、子供の腕でもよい絵が撮れました。機関士さんは汽笛を鳴らして手を振ってくれました。

 川棚には昔、鄙びた公衆温泉がありました。コンクリートむき出しの武骨な浴槽で、天井には裸電球がぶら下がっていて、冬は隙間風がキリのように通る脱衣場は凍えるように寒かったです。父さんはなぜかこのお風呂が好きで、よく連れてってくれました。チックを洗い落した風呂上りの父さんは、ひどい癖毛が巻いて跳ねあがり、まるで別人のように見えました。温泉に入り、瓶入りリンゴジュースを飲み、瓦そばを食べ、温泉饅頭を買って帰る、これが私たちの定番行程でした。

 夏は、温泉に入る前に楠樹を見にに連れって行ってもらいました。推定樹齢1000年超の大木、幹の周りは11m、高さは27mもある巨木です。放浪の俳人、種田山頭火が「大楠の枝から枝へ青あらし」と詠んだように、大きく枝を広げて葉を繁らせ、遠くから観るとまるで森のようだということで「くすの森」と名付けらたこの樹の勇壮な姿に、子供ながらも神々しさを感じたものです。ずっと後に息子たちと「となりのトトロ」を観たときに、この樹を思い出しました。トトロが枝の上にねっころがってオカリナを吹いている、そんな情景がぴったりの大木です。

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国の天然記念物に指定され、日本三大樟樹の一つとされるこの樹が枯れ始めた、と人々が気づいたのは2017年の夏の事です。枝のみならず、大きな幹の一部も枯れはじめました。樹木医や多くの専門家が調査した結果、根に問題があることがらわかる、周囲を養生して水圧穿孔法というやり方で土壌を改良したり、地中に酸素を送り込むエアレーションという措置を施したりと、様々な対策を試行し続けているそうです。今では、いくつかの新芽が再び幹から生え始める「胴吹き」も見られ、少しずつではありますが樹が蘇る兆しも出てきたそうです。時間はかかるでしょうが、ゆっくりと回復してほしいですね。

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【2020年(令和2年)6月15日】
受話器越しの母さんがあまりに情けない声だったので心配で急遽帰省しました(笑)。たしかに特定給付金やマイナンバーカードの申請などなど、書類に正しく記入して、添付物を貼り付けるといったかなり煩わしい作業が求められています。私でも戸惑う事があります。そのあたりは、今後私が帰省してきちんとやってあげるから、何も気にすることはありません、ただ郵便物だけは捨てないでおいてくださいね。昔のように銀行や郵便局のスタッフが原付バイクに乗って家に来てくれることも無くなったので、高齢者にはあまりやさしくないシステムとなってしまいました。個人情報の管理が強化され、様々な手口の犯罪を防ぐためには仕方ないことなのですが、在宅者には不便ですよね。今はもう性善説に立って生活できる社会ではありません。これは田舎でも、都会でも同じなんですよ。

私やチエのみならず、ナツやユウにもずっと積み立てをしてくれてたなんて、驚きました。本当にありがとうございます。私が同じことを子供や孫にできるかどうか、自信ありません。年金をこつこつ貯めて、ATMも使わずに必要なものだけを現金で買う母さんのライフスタイルは、今の世代には理解できないでしょうが、とても立派です。

でも、本当に無理だけはしないでください。わからない事や、迷うことがあれば私やチエにいつでも相談してください。すぐに下関に行きます。

いよいよ梅雨入りです。花や樹木が嬉々とする季節になりました。きれいな花を咲かせて、樹々に実を結ばせて百舌鳥を呼ぶ、そんな母さんの庭作りが大好きです。東行庵の睡蓮や花菖蒲も見事でしたね。下関はとてもきれいな街ですよ。

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「もう、くたびれた。」なんて言っちゃだめです。まだまだ母さんと話したい事、行ってみたい処がたくさんあります。気弱な事を言うとまた父さんに叱られますよ。「まだまだオマエの順番やないぞ」って。順番たがえたらいけん、これは母さんの口癖だったでしょう(笑)。私もそろそろこのフレーズを使わせてもらいますね。

7月にはまた帰ります。

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