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粗末な暮らし 2

「あぁ。畑か。それほど強い地震じゃなかったけれど、気をつけて」
「ありがとう」
 アンバーが、裏口の方へ歩いて行った。そこには使い捨ての防護服を着せられた、中年の女がモップ掛けをしていた。

粗末な暮らし

「こんにちは」入江田と目が合ったからなのか、楽しくもなさそうな明るい声で、その女性は入江田に挨拶をした。
「……こんちわ」入江田はぼそりと呟いた。マスクと頭巾の間の目元のシワが案外深かった。入江田は、彼女を中年だと思っていたが、もしかすると自分の祖母ぐらいの年齢かもしれないと思った。そして、クアオルト周辺の住民のほとんどは、高齢者だということを彼は思い出した。
「地震怖いですねぇ」入江田が挨拶を返した事に気をよくしたのか、女性は今度は一段階高い声で話しかけた。
「えぇ」彼は曖昧にしか答えられなかった。
「ホント、頻繁ですね。揺れる度に不安になっちゃいますよ。そういえば、さっき電話をしていたのですか?」彼女は急に話題を変えた。
「え? してませんよ」
「あら? 誰かと話していたような気がしたもので……」入江田はぼんやりと女性を眺めた。彼は、彼女の言っている事を上手く理解できなかった。まるでアンバーという人間が存在していなかったというような言い方にも聞こえた。
「さっき出て行った女性と会話をしていましたが……」
「え? 私には何も見えませんでした。あぁ。すみません。変な事聞いちゃいましたね」気まずい場面に対して、咄嗟の言葉しか女性は用意できなかった。そして、彼女はモップ掛けを再開した。入江田も、何かの言葉で、その気まずい雰囲気を緩めようとしなかった。防護服の女性は、入江田と距離を置くように離れていった。入江田が独り言を言っていたのは、未知の病気のせいだと彼女は思ったのかもしれなかった。入江田は、怪訝な素振りは見せたものの、さして気にすることなく、裏口へ向かった。出てすぐ、少し離れた畑を彼は確認した。確かにアンバーは存在していた。
「イリエダ?」
 入江田の焦点には、遠くの山の頂が定まっていた。その逆方向から、声をかけられた。振り向くと、そこには大きな体を畳むようにして、ガーデンチェアーに座った黒人男性がいた。彼の手には、透明のグラスが握られていた。
「君も酒を飲むか?」と男は続けた。入江田はこの施設に来る前から、彼の事を知っていた。
「あぁ。少しもらおう」実際のところ、入江田は酒を滅多に飲まなかった。しかしながら、その黒人男性――マテオの手の中にある酒が旨そうに見えたのだった。
「そうかい。すぐにグラスを用意させよう」マテオはそう言いながら、右手でこめかみを押さえた。その動きをしなくとも送信できるのだが、それは彼のルーティンだった。そして間もなく、防護服の男がグラスと新しい酒を運んできた。日本酒だった。
「フィフティー・ワンの酒は旨いな。気に入ってるよ」マテオはそれっぽく、入江田のグラスに酒を注いだ。
「俺なんて毎日飲んでいるぜ。地震さえ我慢すれば、ここは天国だな」
 マテオは上機嫌だった。それに応えるように、入江田はすぐに飲み干した。酸味と苦味がはっきりと感じられ、クリーンな印象の酒だった。彼が飲み終わる前に、マテオは二杯目を注ぐ準備をしていた。
「そう言えば、あんたの連れってどんな奴なんだ?」マテオは自分のグラスを傾けながら入江田に聞いた。
「連れ?……誰の事だ?」

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一日延ばしは時の盗人、明日は明日…… あっ、ありがとうございます!