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粗末な暮らし10

黒須は笑顔を見せた。しかし、入江田にはその笑い方が不気味に思えた。
「お大事に」そう言うと、黒須は立ち上がり、廊下の突き当たりにあるエレベーターに向かって行った。入江田は一人取り残された。
 彼の頭の中は様々な疑問が渦巻いていて、なにか辻褄が合わないような気がした。入江田は、試しにこめかみを押さえてみた。 

粗末な暮らし9

 やはり何も起こらなかった。入江田が食堂に戻ると、すでに清掃員の姿はなく、食器類は全て片付けられていた。彼は椅子に座って、天井を見上げて双児宮計画に選抜された事を考えてみた。彼の心には一瞬、独りよがりな誇りの残像が尾を引いて流れていった。しかし、同時にチャイナでの掃討作戦の事を思い出し、負の感情がノミやシラミのように、頭皮の上で蠢いているような気がした。彼は頭を掻きむしった。眩しさと記憶でチクチク痛み出した眼を擦り、思い出したくない場面をひたすら隠そうとした。「俺は悪くない」「あれは作戦だった」心でそう呟いて、自分が何の為に闘っていたのかという事を考え始めた。そんな事を考えても、納得できる答えが出てきた事はなかった。
 入江田はスマートフォンを取り出した。そこには、彼の家族の写真が残っていた。妻と子供がいた。妻はまだ若く、入江田よりも三つ年下だった。子供は二歳半だった。入江田は、家族の名前を思い出そうとしなかった。名前を聞いただけで、中国に行っていた時の記憶が蘇るからだ。
「入江田さん?」
 声をかけられた方に視線を移すと、そこには先ほどの清掃員が立っていた。入江田はスマートフォンをポケットに戻しながら「そうですが」と答えた。
「あぁ、よかった。さっき食堂で話しかけた時、具合が悪そうだったので」清掃員は言った。「私は中村といいます。よろしくお願いします」
「ええ。こちらこそ」
「今、ちょっと時間ありますか?」
「はい。大丈夫ですけど」
 入江田は立ち上がって、中村の後に続いた。二人は、食堂の横にある談話室に向かった。そこには、ソファやテーブル、本棚があり、壁には絵が飾られていた。入江田は、自動販売機でコーヒーを購入すると、中村と向かい合って座って話の続きを促した。

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一日延ばしは時の盗人、明日は明日…… あっ、ありがとうございます!