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粗末な暮らし9

「大丈夫ですか?」
 硬い髪に白髪が混じりかけた、白衣を着ていない男が入江田に声をかけた。グレーのスエットパンツ、白いTシャツ、履き古したジョギング・シューズという格好で、体格も良く、運動部のコーチのように見えた。どうやら清掃員は医務室に連絡をしていたようだった。

粗末な暮らし8


「あぁ。大丈夫です。少し休めば良くなると思います」
「それならいいんですけど。無理しない方がいいですね」
「あの、あなたは?」
「私は黒須です。このクアオルトの医師です。よろしくお願いします」男は握手を求めてきた。入江田はその手を握り返したが、相手の手の冷たさに驚いた。黒須と名乗る男は、前日に会った医師とは違った。
「先生は、いつからここに?」
「三ヶ月前にここに来たばかりです。まだ慣れていなくて、迷う事が多いんですよ」黒須は医者らしく患者を気遣い、入江田を廊下のベンチに座らせた。
「そうなんですか」
「そういうあなたは入江田さんですね」黒須が右手で、自分のこめかみを押さえた。それはマテオが検索する時の動作とそっくりだった。
「あの……。先生もトランスヒューマニズムの拡張をされているのですか?」
「拡張? ああ、はい。そうです。」
「それは、どんな?」
「んー。戦時中ですからねぇ」
「それはどういう意味でしょうか?」
「まあ、いろいろあるということです」
 黒須の言い草に、入江田は、言いようのない気怠さを感じた。少し前まで彼がいた場所は、もっと生々しい世界だった。恐怖、心の痛み、そして自責が戦場にはあった。流れる水の音、パパパパパと遠くで弾く戦闘の音。サイバネティック・アバターと生身の人間が交錯し、それだけでなく、人民解放軍は自国の国民さえも盾にしていた。恐怖の幅は広がり、常にそれを超えなければ正気でいられなかった。物憂う事も少なくなかった。人が死ぬことはだれでもが知っている。そして、間違ってそれを奪う事もあった。
「それより体調はどうですか?」黒須は焦ることなく話題を変えた。
「えぇ。だいぶよくなりました」
「そうですか。それは良かった。今日はもう部屋に戻って寝てください」
「あの、先生。僕は感染症だと聞きましたが、一体どういった……」入江田の言葉を遮るように、黒須は入江田の肩に手を置いた。
「ここは厳密に言うと病院じゃないので、詳しく話すことはできないのです。自然治癒と自然環境を用いる治療手法が主な考え方です。ただ、あなたの状態については、明日説明しますので安心してください」
 黒須は笑顔を見せた。しかし、入江田にはその笑い方が不気味に思えた。
「お大事に」そう言うと、黒須は立ち上がり、廊下の突き当たりにあるエレベーターに向かって行った。入江田は一人取り残された。
 彼の頭の中は様々な疑問が渦巻いていて、なにか辻褄が合わないような気がした。入江田は、試しにこめかみを押さえてみた。


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一日延ばしは時の盗人、明日は明日…… あっ、ありがとうございます!