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昨日は慰霊の日

もしも日本が戦争に巻き込まれて、昔で言うところの召集令状を受け取ったら、軍隊にどういう心境で入隊するか?

若い時にそういう想像をした。
リアルな体験はないけれども、人をいかに合理的に殺す戦地は恐ろしいところだということは、なんとなくわかっていた。

正直な気持ちは、怖いから戦争には行きたくない。けれども、もし召集されたら僕は必ず戦地に行くと決めた。

右とか左とか、何かの思想に傾倒していた訳ではない。けれども、国を守るために誰かが闘わなければならないのなら、若い自分が行かなければならないと思っていた。

若かったから、そんな立派な事を思えただろうし、実際に戦争にならなかったから、戦争に行けると思えたのだと思う。

もし同じ質問を今、他人からされたら、39歳の僕は行かないと即答する。

若い時なら訓練に耐えられたと思うけれど、今、召集されたら訓練中にヘタうって、全体責任とかになって同じ班の人に迷惑をかけるだろう。訓練についていけない。
それだけの理由だ。
行かないと言っても、もしも赤い令状を受け取ったら、怖いけれどもそれに従うと思う。

昨日、6月23日は沖縄戦などの戦没者を追悼する日、「慰霊の日」だった。
戦争で亡くなった方を悼む日だ。
沖縄では、軍人だけでなく多くの県民がその尊い命を失った。

僕は、民間人が巻き込まれる武力衝突は、すべての悲劇の集大成だと思っている。
なんとしても、武力衝突は避けるべきだと思っている。もし、そうなったとしても民間人を巻き込んではいけない。

けれど、戦争はなくならないと僕は思っている。

戦争の対義語は平和ではない。
平和的な対話だ。

それができない状況があることぐらい、39年生きてきたらわかっているつもりだ。
戦争を推奨する事は絶対にないけれども、ある脅威をないとは言えない。

僕は街頭で、戦争反対と大声では絶対に言えない。
それは、反対だという気持ちがあっても、無くならないと思っているからだ。それに、戦争を回避できる交渉術が僕にはないからだ。

今、自分ができない事を、大声で叫ぶほど僕は恥知らずではない。
では、黙って従うだけなのか?

自分が影響できる範囲のやれることをやるしかない。
それを広げる事しかない。

若い時も今でも、僕は令状を受け取ったら従う選択肢を選ぶという結論のままだ。
まだまだ、自分の影響の範囲は広げる事ができるのだろう。
慰霊の日は考えるきっかけだ。




一日延ばしは時の盗人、明日は明日…… あっ、ありがとうございます!