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空と運転手

 雨で洗われた春の空は、紫がかっていた。それは薄い膜のようで、その下には真っ青な空が広がっている筈だと俺は思った。
 俺は車の側に立って、空を眺めながら無用な事を考えていた。そうでなくとも、俺は腑抜けてしまうほど、自分の無力に嫌気がさしていた。というのも、今から来るお客さんが若い女性だからだ。死ぬには早すぎる人間を乗せる時は、こんな気分になる。何も感じないわけにはいかない。別に同情している訳ではない。
 そう自分に言い聞かせるが、人間らしさといえばそうだろうな。俺が男で、若い女に特別な感情を抱くのは当たり前な事だ。もしかしたら、俺は死ぬ事がどういう事なのか、まだわかっていないのかもしれない。

「すみません。お待たせしました」

 若い女性が時間を守らないのは仕方のない事だ。俺は「ずっと立って待っていました」という態度を隠すように、恭しく後部座席のドアを開けた。男物の学生服を羽織った彼女は、死ぬには早すぎる眩しい笑顔を見せた。生きている頃から周りに気を使ってきたのだろう。

「もう車を出してもよろしいですか?」

「はい。もう大丈夫です。戻る事ができないのはわかっているつもりです」
 
「ご愁傷様です」という言葉は本人に向けられた言葉ではない。身内を失った人に対するお悔やみの言葉だ。本人にかける言葉を俺は知らない。

「それでは出発します」

 運転席に座った俺は、何かを言わなければ、その場の隙間を埋める事ができなかった。不必要な台詞を2回繰り返して言うのは、いつも以上に気を使っている証拠だ。

「私は本当に死んだのですね」

 俺が気を使っているのを感じてか、彼女が身の上話の種をまき始めた。空はいよいよ紫を通り越して、オレンジ色に変わっていった。春は黄砂の影響を受けて、空の色が幻想的になる。そんな空を見ながら彼女は何を考えているのだろうか。多くの人が言う台詞を口にしている事から、まだ信じられないと思っているのかもしれない。

「何も特別な事ではありませんよ」

 慰めるつもりはない。そう言う他に何も思い浮かばなかった。俺はウインドシールドの向こう側、誰もいない道路を見ていた。そして、ヘッドライトを点けた。

「私は自分が特別だと思っていた事がありました」

 それに対して俺は「そうですか」という息だけを吐いた。それから、それでは冷たすぎると思い「そう思う事はおかしなことではありませんよ」と付け加えた。俺は、彼女がなぜ死んだのか知らない。ただ配車された通り、お客さんを乗せるだけ。俺は単なる運転手だ。それ以上でもそれ以下でもない。

「若い人を乗せたことがありますか?」

 俺に関心を向けるような返答にはしたくなかったので、俺は巧みに話をすり替える為に暫く考えてから、答えるようにした。

「ありますよ。お客さんよりも若い人を乗せる事もあります」

「そうですか。なんで私達は死ぬのでしょうね。死ぬという事は、死ぬまで怖い事でした。私は生きているだけで価値があると思っていたので、それが終わるという事は、価値がなくなる気がしていたのです」

 彼女は死ぬという事に向き合ってきた人なのだと俺は思った。否定する気はないが、俺も俺の考えを言う事が礼儀だと思った。

「生きている間しか価値がないとは思いませんよ。私はね」

 繊細なガラス細工を扱うような気づかいではない。何もしてやれないからこそ、そっと聞き出してあげる事が必要だと俺は心がけている。空は空であるだけで、他に何か特徴があるわけではない。澄み渡る時も、今日みたいに紫がかる事も、あるいは荒れる事もあるだろう。空はただそこに息づいている。それだけで、空は人にさまざまな感情を喚起させる。俺みたいな運転手もそうあるべきだと思っている。ただそこにいるだけの人で充分な存在なのだ。がっかりさせたり、恐れさせたり、慰めたり、そんな事をさせるような存在ではない。だから「何かをしたい」「そう思うことを止めさせたい」と思わないようにしてきた。

「どういう事ですか?」

「あなたがあなたである時間を共有した人達がいて、その時間というのは過ぎ去ったモノではないと思います。時間があった証拠は記憶です。あなたは今生きている人達の記憶にいる。それも価値だと思いますよ」

 説明が下手なのはいい。俺は自分に言い聞かせた。空が語りかける事はないだろうが、運転手は話しかけるものだ。

「その人達が私を忘れる事はあるのでしょうか?」

「一時的に忘れるという現象を恐れてはいけませんよ。人の記憶は完全には消えないのです。思い出さない事はあっても、忘れる事はないのです」

 涙をすする音が聞こえた。

「この服を私の棺桶にいれたのは、私の彼氏なのですが、私の記憶はどうでしょうか?彼の記憶を失いたくありません」

 彼女はしっかりしていると俺は思った。そして、やや俯瞰してバックミラーを見た。その学生服の袖で、彼女は涙を拭いていた。

「お客さんの目的地の事は私は知らないのです。なので、下手な事を言えないのですが、記憶や時間というのは存在しているわけではありません。あるとも言えるし、ないとも言えます。だとしたら、お客さんが大事だと思っている記憶や、過ごしてきた時間は、完全になくなる事はありません。今、大事だと思う事が全てではないでしょうか」

 それから彼女が何かを言う事はなかった。ただ、黙って、嗚咽や涙をすすり込み飲み込みながら、いじらしく泣いていた。俺も何も言わなかった。そうするべきだと俺は思ったのだった。

「着きました」

 機械的な声に聞こえただろうか。だが、俺は嘘を言う事が嫌いな性格だ。そう言うしかなかった。

「ありがとうございました。運転手さん。あなたが来てくれてよかった」

 彼女は学生服を脱いで、それを胸に抱えて降りて行った。それは同じ時間の流れを、その持ち主と共有するような儀礼だと俺は思った。また、淋しいと思いたくなくて、無理して麻痺させていた感覚を開放していくような儚さだとも思った。
 空はすっかり暗くなっていた。静かに、確実に時間は流れているような気がした。しかしながら、俺の記憶の中にも、永遠といえる時間が詰まっていると俺は思うようにした。



おわり

 


一日延ばしは時の盗人、明日は明日…… あっ、ありがとうございます!