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真実は海の中

 手で顔をあおぎはじめた舟の上の青年。凪いでから、急に蒸し暑くなったのだ。船頭はうつむいて、それをながめながら櫂を漕いでいる。彼は帯の間に手をさし込んで、独り言のように、自分の孫と同じ歳ぐらいの青年に話しかけた。「ところでな。あんた、何故こんなところに舟を出せ言うんじゃ?」金はもらった。文句など言えるわけがないのだが、渡しでも、釣りが目的でもなく、ただ「舟を出してください」というのが、船頭は不気味に思ったのだろう。彼は機会を窺ったような、上ずった声で尋ねたのだ。「えぇ。ちょっと」返事に窮したというよりは、青年は答え渋っているようだ。今度は声の調子を落として、いかにも興味ないという具合に、船頭は「そうか」と短く言った。海が板を張り詰めたように鎮まっている。くたびれたように黙り、平らな海が無音を際立たせる。
「このあたりじゃが」沈黙を破った船頭は、何もない場所で青年にそう尋ねた。小さな舟で、これ以上沖に出るのは危ないと思われるギリギリのところ。船頭は苦い眼をした。
「久しぶりです」
「はぁ?」
「えぇ。前にここに来た事があるのです」
「前に?」
「あなたと」
 船頭は若かった頃の自分を思い出した。「まさか」と思ったが、取り乱すことはしなかった。
「もしやあんた、誰かの生まれ変わりとでも言うんじゃなかろうな?」
「おや。心当たりでも?」
「ふん。ここで何をするんじゃ?」
 船頭は「舟を出してくれ」と言った青年の頼みを断らなかった。それは予感に似た、ある種の感覚がそうさせたのかもしれない。
「どうですか? 満足のいく人生でしたか?」
「だから、何の事を言っているんじゃ」
「兄さん」
 船頭には弟がいた。それはかなり前に亡くなっており、それからは、彼の事を「兄さん」と呼ぶものは居なくなったはず。
「何を言っとるんじゃ?」
「ここが何処なのか知って舟を出したのでしょ?」
「しらん」
「そうですか。まぁいいでしょう」
 舟は揺れる事もなく、水に浮いている。空では太陽が雲に隠れはじめた。雨が降ればすぐにでも嵐になるかもしれない。
「あなたはもうすぐ死にますよ」青年は淡々と告げた。
「わしが死ぬのか?」
「はい」
「どうして分かる?」
「僕が殺します」
 その言葉を聞いた時、船頭の表情が変わった。今までずっと冷静を保っていた彼だったが、動揺を隠すことが出来なかったようだ。
「どういうことじゃ!」怒鳴るように言い放つ。そして、「お前は一体誰なんじゃ!?」と付け加えた。
「僕の事を忘れたの?」青年は悲しげに笑う。
「忘れるも何も……」船頭は戸惑いながら、青年の顔を見つめた。「儀介……」と呟いた後、ハッとして顔を上げた。
「思い出してくれたようですね」青年は笑みを浮かべた。
「何故ここにいる?」
「さっきも言ったじゃないですか。僕はあなたを殺しに来たんですよ」
「ふざけるな」
 怒りにまかせて櫂を振り回そうとした瞬間、船頭の目の前にいた青年の姿が消えた。
「どこへ行ったんじゃ」
 船頭は辺りを見回す。しかし、どこにもいない。
「後で会おう。兄さん」
 耳元で囁かれた気がして、船頭は振り向いたが誰もいない。波が高くなりつつあった。プツプツした空気に、野獣のような匂いが充満してくる気配が海にある。
「儀介……すまんかった」
 船頭はひとりごちる。そして舟を漕ぐのを再開した。
 
 雨が止んだ頃、舟は陸に着いた。その中には船頭が一人で横たわっていた。
「なんで、時化の時に舟を出したんじゃろな」誰かがそう言った。船頭には儀介という弟がいた。その儀介が死んだのは、ちょうどこのくらいの季節。船頭が言うには海に落ちたそうだが、本当の事は他の誰にもわからない。
「それにしても、舟から落ちずによく戻って来たもんじゃ」
 船頭は何も応えない。ただ寝ているだけのように見えるが、死んでいる。
 
 昔、村の兄弟が舟で漁に出た。戻ってきたのは兄の方だけ。弟の方は行方不明になったまま見つかっていない。舟から落ちて溺れ死んだか、それとも、どこかで今も生きているか。
 雨が止んだ後の海に、翳が広がっていた。墨汁のような海は悔恨。日向はわずかに遠くに残っていて、それは悲しげに光っていた。
 

一日延ばしは時の盗人、明日は明日…… あっ、ありがとうございます!