作家の仕事は絶望に屈せず 人間存在の救いを 見いだすこと
初めは偶然でした。
自殺について書かれていると思われるタイトルを目にしたのです。
素直に表現すれば、その時に、不潔な人を見た時に似た感情を抱きました。色褪せて元の色がわからなくなったジーンズ、パサパサの髪の毛、汗が発酵して、凄まじい臭気を纏った垢にまみれた汚れた肌。
「できれば近寄りたくない」
そういう心持ちです。そして同時に「自分はそうならない」と思い込みました。または「現実逃避じゃないか」という無責任な言葉も頭に浮かべました。希死念慮されている方を、僕は軽蔑していたと思います。
僕自身の事を言えば、確かにそう思った事はあります。ただし程度の低い「死にたい」です。上手くいかない事ばかりで、心の中でポロリと呟いた程度というぐらいです。
どんなに悪い状況にいた時も、本気で死のうなんて考えた事など、僕にはありませんでした。ハッキリ言うと「自殺したい」なんて思う事は弱い事だと僕は思っていました。
どんなタイトルか具体的には忘れましたが、自殺を示唆するような記事に「近寄りたくない」と思う反面、読みたくなりました。ある種の曲がった好奇心でしょうね。それは傍観者という枠内で膨らみ、「なぜ死にたいのか?」と気になりました。
これは、noteの特権です。相手に気づかれずに、こっそりと記事を読む。
僕は「死にたい人」の記事を読んだのです。
読んで拍子抜けしました。
その記事は思っていたものと違いました。タイトルは過激だったのですが、よく読むと、過去に自殺を考えた人が「やっぱり自殺はよくない」という主張するものでした。本当なら安心すべきでしょうが、事故現場周辺を埋め尽くす、物見高い群衆と同じ心理です。僕は他の人の記事も読みたくなりました。
不謹慎だと思われるかもしれませんが、物足りなさを感じた僕は、少しばかりの後ろめたさを抱きながらも、『#自殺』とタグ付けされた文章を検索したのでした。
大半は、初めに読んだ記事と同じく「自殺はよくない」という主旨の内容のでしたが、切実に「死にたい」という声を見つけました。
それからですね。
具体的にどんな記事だったのかを書くのは割愛しますが、僕は「自殺を考える事は弱い」と思わなくなりました。むしろ「そう考えるまで、真剣に生きている証拠」なのだと僕は思い始めました。
それまで「自殺は逃げる事」だという固定観念を僕は持っていました。「死ぬ気でやれば何でもできる」という意見の持ち主でしたが、逆説的に僕はそこまで真剣に生きていなかったと内省もしました。
(別に死にたいと思い詰める事が偉いと思わないのですが、なんとなくそんな気がしたのです。)
僕は自殺を肯定するようになったわけではありません。
ただ、切実に死にたいと思っている人ほど、頑張っている人なのだと思ったのです。頑張って耐えて、頑張る事を頑張って、中には疲れ果てた人達もいるのではないかと思うようになったのです。
今年の2月の終わりに、車でダム湖の周りの道路を運転しました。それは偶然です。ダム湖を目指したのではなく、そこを通る必要があったから、僕はその道を運転しただけです。
そこはある人が、そのダムに飛び込むという記事を書いていたダムでした。
いや、具体的な固有名詞を書いていなかったのですが、土地勘のある人間ならピンと閃くダムです。
何度かコメント欄でコンタクトをとっていた、その人のアカウントは今は消えてしまったので、安否の確認はできません。
「その人はきっと生きている」
なんて楽観できませんでした。
ダム湖をのぞき込んで、白くなった顔が浮いていたらなんて考えると恐ろしくなって、僕はアクセルを踏みました。あの人がそんな記事を書いていたのは1年も前の事なのに、僕は怖くなったのです。
「自殺したい」と考える事と、「自殺をする」事には「超えられない壁」があると思います。そう思うのは、僕のように自殺をしていない人間でしょう。実際にはその壁を超える人がいるのです。
ダム湖を車で通りすぎた時から、僕は物語を頭で組み立てました。3月からnoteに書いている『超えられない壁』という物語は、僕の妄想です。取り留めもない物語で、未熟な部分もありますが、根底にあるのは僕なりの願いです。
生きていればいい事があると思いたいのですが、そう言われて傷つく人がいるのです。
それでも僕は生きている事を願いたいのです。
生きるとか死ぬとかを超えて、僕達は何をすれば、幸せなのかを妄想しながら書き続けています。
この物語を読んでいただいている方には感謝しています。
この物語を書いているのは、希死念慮されている人に「自殺は良くないことだ」と訴えている訳でも、自殺を面白半分に題材にしている訳でもなく、本当は死んでいない事を静かに願い、僕が納得したいだけなのです。別に何かを背負っているとかを気取っていません。ただ、書きたいだけです。
だからこそ、読んでいただいている事を感謝しているのです。
死にたいという気持ちを否定しませんが、できる事なら全ての人が笑って生きて、笑うように死ぬ人生を歩めることを願いたいです。
人は死を恐れ
宇宙での魂を思う
作家の仕事は絶望に屈せず
人間存在の救いを
見いだすこと
これは僕の好きな言葉というか、座右の銘です。
ウッディ・アレンの映画に出てきた台詞です。
理想に近づいている自分を実感しています。優越ではなく、単に僕自身がそう思っているだけです。物語の優劣を問われれば、このお話は、わかりにくい事と、破綻している部分があるので自信作ではないですし、まだ終われていません。
しかしながら、ぼんやりですが、なんで僕たちが生きているのかという事の輪郭が見えてきたような気がします。
言語化できない事は、理解とは言わないかもしれませんが、色んなお話をこれからも書いていきたいと思うのです。
よろしければ、これからもお付き合いのほどよろしくお願いいたします。
一日延ばしは時の盗人、明日は明日…… あっ、ありがとうございます!