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まだ早い。

 私の目の前の生活には、なんとなく黒い靄がかかっていた。私は見えないフリをしてきた。その靄の正体を私は知っているけれど、ずっと見たくなかった。
 ミネトと付き合い始めたのは大学生の頃。つまり、20代のほぼ全ての時間を私はミネトと過ごしてきた。ほぼ全てというのは、もうすぐ30歳になるという事以外に理由はある。それについては、発作のような事。消去法で、私はミネトに執心している訳ではないと思いたかった。それに、体を預けても心は売らなかった。何人だったか数えていない。誰1人にも心を渡さなかった。それが私なりの貞操だった。
「俺は売れるようになる。そうなったら、返すから……」
「これさえ書けたら、きっと……」
 これまで投資してきたお金や時間を無いことにする勇気が私にはなかった。ミネトの夢が叶えば、彼は私にプロポーズする。何の担保もないけれど、そういう期待を私はしていた。しかしながら、そんなのは私の妄想だった。ミネトは自分の無能の言い訳の為に、夢を利用しているだけ。私はそれを信じている馬鹿な被害者。
 そんな愚かな自分を、私は今まで認めたくなかった。
「ねぇ。いつまで待てばいいの?」
「はぁ?」
 私が帰宅すると、灰皿に山ができていた。それが今日1日のミネトの成果。それを生産しただけの生活。そう思うと私は自分が惨めだと思った。職場では、ミスをしないのが当たり前だと思われて、チヤホヤされることも少なくなってきた。そんな自分の生活を、ミネトに搾取されている気がしたのだった。
「小説、書いているの?」
 私は一度も彼の書いたモノを読んだ事がなかった。一度も。
 私には夢がなかった。夢がなかったから、しっかりと私は現実を生きてきたと思うし、私は現実を生きていると思っている。だからこそ、夢を語るミネトに惹かれた。それだけで、私も夢を見ているつもりになっていた。
「書いているよ」
「嘘。もうやめてよ。無理でしょ?書かないのに夢ばかり見ないでよ」
「違う。頭の中では、できかけていて、もう少しででき……」
「やめて!」
 私はミネトの言葉を遮った。何も準備していなかったのは、私もミネトも同じだった。それなのに、私は低すぎるギアで、いきなりクラッチをつないでしまった感じがした。アクセルを踏んでいないのに、回転数がレッドゾーンを超えた。普段はそんな運転なんてしないのに、心がささくれた時に、前をトロトロ走る車に腹を立ててしまう。そんな感じ。
「おいおい。どうしたんだ?何かあったか?ヨリコ?」
 私は名前を呼ばれて、なぜか心がキユッと鳴った気がした。なぜだろう?ミネトの声に安心してしまう。でも、これ以上は駄目。黒い靄が現実を覆い尽くすという、得体のしれない恐怖を私は感じた。
「無理でしょ?」
「えっ?」
「だから、無理だって」
 ミネトは軽くなったボックスタイプのタバコを持ち上げて、一本取り出した。ライターに手を伸ばしたのを見て、私は無性に腹が立った。
「やめて。もうやめて。そのタバコだって自分のお金で買っていないでしょ?その服も脱いで。全部置いて、ここから出て行って」
「なんだよ。どうしたんだ?変だよ」
 歳の割にミネトは若く見える。苦労の跡なんてない。学生にも見える。それなのに私は自分だけが歳をとって、この男に吸い上げられている。そうだ。絶対にそうだ。もう無理だ。
「私は変じゃない。そろそろ30歳だよ?いつまでこんな感じなの?ない夢に生きるのは止めにしてよ。働けよ。働いて、自分で生きなよ。もう、嫌になった。前から思っていたんじゃない。今、そう思った。それに、これから先、今思った事を私は後悔しない。もう無理。お願いだから出て行って」
 ミネトは唇を尖らせた。彼の癖。前に見たのはいつだろうか?思い出すのも嫌。もう無理だ。その二文字だけが私の頭の中をグルグル回って、意味なくアクセルを踏んでいる感じ。もう止まらなかった。追い出せないなら、私が出ていく。
「俺が悪かったよ」
 心にもない。そう思った。それで済むわけがない。そんな事もわからないの?本当に嫌になった。ミネトの声に私はもう騙されない。
「いい。私が出て行く。勝手にして。この部屋は解約する。私にはそれができる。ミネトにはできない事を私はできるの。そういうのわかる?わからないでしょ?」
 ミネトの顔を見ない事にした。準備もしなかった。帰ってきた格好そのままで、私はドアの方に向かった。行く当てもない。とにかく、こんなところに私はいられなかった。
「待てよ」
 声が聞こえた。その割に、立ち上がった気配はしなかった。やっぱり私は間違っていないと思った。私は正しい。そんな確信をした。
「明日は休もう。無理だ。無理だから」
 私はそう呟いた。
 アパートを出たら、すぐに幹線道路に向かった。車が沢山走っている。家路に向かっているのか、仕事で走っているのか、夜遊びに出かけているのか、それぞれの目的で車が走っていた。
 私は手を挙げてタクシーを捕まえた。
 目的地なんてなかった。「とにかく、ここから出たい」私はそう言った。運転手は怪訝な顔をしていたと思う。けれども、すぐに「わかりました」と言った。もしかしたら、そんな台詞は珍しくないのかもしれない。
「私はどこに向かえばいいですかね」
 私は間抜けな事を運転手に聞いた。わかる訳がない。私はどうかしていた。
「お客さんは、まだ早いですよ」
「えっ?」
 私には運転手の言っている意味がわからなかった。わからないけれど、私は逆に遅すぎたと思っている。
「あぁ。失礼しました。なにかお困りごとですね。いえ、お客さんの目的地が分からなければ、私はどうしようもないのですよ。とにかく車を出しますが、できれば早い段階で『降りたい』と言ってくださいよ」
「おかしな事を言ってすみません」
「いいえ。大丈夫ですよ。そういう時もありますよ。生きていればね」
 なぜかわからないけれども、私は本当に、まだ早い気がした。まだまだやっていける。ミネトの事はもう頭から無くなっていた。今日はちょっと贅沢してもいいと思った。そんな事を考えるようになった。けれども、自棄になっている訳ではなかった。常識的なホテルで、きちんとベッドメーキングされた綺麗な寝具に包まれて寝てしまいたかった。
「どこか、明るい所で降ろして下さい。とにかく、この付近から出してもらえればどこでもいいです」
「はい。承知しました」
 私は何の気なしに振り向いた。未練ではない。ただ、単にそうしただけだった。
 ミネトの姿はなかった。それでホッとした。本当にそう思った。車は適度に走っていた。速くも遅くもない。ただ確実にどこかに向かっていた。私が目的地を決めれば、すぐにでもそこに着くのだろう。
 あぁ。そういうことか。
 私はなにか重大な発見をした気になった。そうか。私に足りなかったのは、そういう事か。目的を決めていなかった。ただ漠然と生きて、夢を見ているつもりになっていた。そう思うと、今までの事は遠い昔のような感じがした。私はまだまだこれから。遅くない。
 信号が青だった。もう少しだけこの車に乗っていたい。私はそう思った。そうして、降りたい時に降りられる。それができる私は、凄い人物なのだと思った。


おわり

一日延ばしは時の盗人、明日は明日…… あっ、ありがとうございます!