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言葉とか思考とかその両方

まただいぶ間が空いてしまった。毎日コツコツ、ということがとにかく苦手だけど、たまに昔のnoteにいいねが来たりして、「おっ」と思う。広大なネットの片隅も片隅にある私の文章が、誰かの琴線に触れることがあるならうれしい。

先日、友人がX(旧Twitter)(←この表記をやりたいだけ)でリポストしていた投稿によると、「日本語で学んだものは日本語でしか出てこない、外国語の場合もしかり」という投稿を見て、はぁ〜なるほどね、と目が開かれるようだった。

私は母語以外の能力はかなり低いトリリンガルだけど、母語以外で教育を受けた経験はない。でも、外資に行った友達が会話に英単語ばっかり使うようになるのを「なんだよ」とか思っていたので、たしかにそういう時は仕事に絡む話をしていたなと思い出し、なんだか素直に納得できた。

言語は思考なので、例えば高等教育レベルの内容の学びや、ビジネスのように間違えたらやばい場面での会話や用語集みたいなものは、その時に使っていた言語によってインプットされてしまうと、ほかの言語にスッと当てはめられないのかもしれない。

そこまでじゃなくても、これを説明するのに、あの言語にはぴったりの言葉がないな、と思うぐらいの経験は私にもある。あとは、先日見た単館系の作品にはデフォルトで英語字幕が挿入されていて、英語になると日本語のニュアンスはこんなにも削ぎ落とされるのか、と驚いた。逆に英語でしか出せない情感もあるなという気付き。愛してるすら、I love youとは異なる響きがある気がする。

言語学のおもしろさに気付いたのは大学を卒業してからだ。学生時代の私は勉強が嫌いだったし、できるできないにムラがあった(数学ができなさすぎて、数字が極端に苦手な障害とか探して「それのせいだ」と主張していた。今考えるといろんな方面にひどすぎる)。それを見越してか、高校の担任は「興味のあることを選んで勉強できる大学ならもっといい成績が取れると思いますよ」と言ってくれた。

でも大学でも大して成績はよくなかった。いま思えば、はいこれをやりなさい、というようなことが嫌だったのかな。親は大学院に行けばと言ってくれたが、文系だったし、これ以上なにを勉強しろというんだと思って普通に就職した。仕事には結構やりがいを感じるし、別にこの選択を後悔はしない。だけど、より広い世界を垣間見るにつれ、勉強することは無限にあるし、勉強が本分の学生という立場は素晴らしいものだなと実感をともなって思う。というか、学者になるような人を除き、本当に学びたいことって社会に出てから気付くことの方が多いんじゃないか。

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