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ひとりぼっちの楽しみ④ わたしの料理修行

 美しき緑走れり夏料理      星野立子
 
 一九八七年のこと、散歩がてらふらりと入った世田谷美術館で北大路魯山人展を観た。魯山人の陶芸を中心に食通の魯山人の業績が紹介されていた。はじめて触れた世界だった。感化されやすいわたしは、魯山人の本を読み、ささやかな食いしん坊の道を歩みはじめた。美味しい豆腐を買い、魚屋で鯖をさばいてもらってしめ鯖をつくった。
 もちろん陶芸にも手を出した。渋谷にある陶芸教室に通った。しかし、魯山人の陶芸とはちがう。ほんとうの陶芸家というものを見てみたいと考えた。
雑誌で東京の陶芸家という特集をみつけた。その中でいちばん気に入った陶芸作品が、多摩市に住む辻清明・辻協夫妻の器だった。辻清明は信楽焼風の焼締めを薪窯で焼いていた。
 陶芸界の巨匠とは知らずに、わたしは工房にお邪魔したいと手紙を書いた(若いとは怖いもの知らずだ)。妻の協先生から「いらっしゃい」と返事が返ってきた。
 お訪ねしたのは、三月三日である。最初の訪問で何を話したのかは覚えていないが、ちらし寿司作りを手伝ったことだけは覚えている。人参や絹さや、椎茸、卵焼きを千切りにした。お客さんが来るらしくて、量が半端ないのである。ふだんはままごとのような料理しかしていないので、腱鞘炎になるかと思った。
 辻清明は、魯山人に負けない食通で知られる陶芸家だった。そこまで調べて訪問したわけではなかったが、わたしは食通の陶芸家の台所に入り込むことになる。
 辻陶房には女性のお弟子さんが二人いた。この二人は辻夫妻が亡くなるまでお世話をした人たちだ。わたしの料理の先生であり、いまでも姉のような存在である。
 いちおう陶芸を習うことが目的であったが、辻陶房では土を作ったり釉薬に使う灰を濾したり、薪づくりをしたくらいである。主な仕事は食事作りだ。
「先生、お昼は何を食べましょうか」と聞くと、清明先生が「うどんにしようか」という。
辻家のうどんは粉を練るところからはじまる。練ったかたまりをビニールに入れて足で踏む。できたうどんは、大きな鉄鍋で茹でて釜揚げうどんにする。器は石川県の角偉三郎の合鹿椀。刷毛目が豪快な大ぶりの漆の器である(この漆椀を買うのが夢だったが、角偉三郎氏が亡くなり、手が出ない値段になっている)。そこに葱や季節の薬味、味噌や醤油、卵、それぞれが好きなように味付けをして、みんなで鍋からすくって食べる。わたしは本当によく食べた。あきれられていたと思う。
 春は京都から筍が届く。炭火で焼いて山椒味噌をつける。備前の陶芸家からは明石の鯛が送られてくる。鯛鍋や鯛ご飯。骨も火であぶってカリカリにして食べる。お茶の時間に来客も多かった。抹茶をたててもてなした。
 辻夫妻は長野県の安曇野にも工房をもっていた。わたしも一緒に車ででかける。工房には薪ストーブがあったので、牛テールのスープをじっくり煮込んだ。春は、朝早く農家さんへ行き、採りたてのアスパラガスやレタスをもらって、朝食の支度をした。朝は、パンとスープ、サラダだった。
 大きな木のテーブルにみんなですわり、大皿をまわしながら味わう。
 結婚して岩手に住みはじめたときに、協先生が料理の本をだした。その本を見て夫が「うちで食べているようなものばかりだな」という。だって、わたしの料理の原点は辻家なのだから仕方ない。素材を活かしてシンプルに食べることを教わった(あれから三〇年も経つと、遠野のばっちゃんレシピやいろいろなものが入っての自己流となってしまった)。
 二00八年に夫妻は病気で相次いで亡くなった。喧嘩もよくしていたけど仲良しなのだ。
 先の句は、星野立子の有名句である。夏料理のみどりうれしい気持ちに溢れている。娘の星野椿の俳句も夏料理を囲んでの賑やかな様子が伝わってくる。
 二0一七年に国立工芸館で辻清明の大展覧会があった。わたしは姉弟子たちと観に行った。帰りはイタリアンレストランで珍しいものを三人で食べまくった。わたしたちはあいかわらず食いしん坊で、食べ物と焼き物の話をしてワインを飲んでいた。わたしたちは、ひとり暮らしになっても、きっと旬の緑を食卓にのせて楽しむことだろう。死ぬまで食いしん坊でいたい。
 
 大皿を廻し廻して夏料理     星野椿
 
 
 

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