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四次元飴

[3521文字] #小説 #短編


「何もかも卒業してはならぬ。」
と師匠は酸っぱい顔をしながら言う。
「へぇ〜、じゃぁ僕はいつまでたってもハンパなまんまじゃないですか。」
弟子はそう言いながら、コイツ大丈夫か?といぶかった視線を師匠の横顔と、自らの腕時計へせわしく送った。師匠はこの弟子の視線に気付いたが、知らぬ顔で腕を組み昼下がりの明窓を見据えながら重々しく言う。
「卒業無き修行にこそに、人生の命題は隠されているものだ。」
弟子はひとつ咳払いをして、暗澹(あんたん)たる空気を振り払った。
「ってか、卒業がないのに、なんの為に僕は修行してるんですかね。」
ごく当然の疑問であった。
「修行とは、いにしえより自らを磨く為の『行』のことである。」
遠くを見据えたままである。
「んじゃ師匠も自分磨きが目的ですか?」
「目的と行とは、また別物であるのだ。」
弟子はこの師匠の言い回しが、ただの詭弁にしか聞こえない事が時々ある。今まさにそう聞こえ、少し血圧が上昇したのを感じた。再び時計をチラッとみて少し安心したのか、または血圧を安定させるためか、座っていた椅子から一旦ゆっくりと腰を上げ再度深く座り直した。そしてポケットに飴玉があったのを思い出して、ゴソゴソまさぐりながら気のない言葉を返すのだった。
「あのね、僕にはちょっとおっしゃっているニュアンスがビシッと来ないんですが。時間もあんまりないし。」
どうやら右のポケットにはなかったらしく、左のポケットをまさぐり始めた。弟子は明らかにこの問答への集中を欠いている。師匠は意志薄弱状態になりつつある弟子の様子に気付いてはいたが、まるでそんな事は意に返さぬ様子で続けた。
「簡単に卒業してしまえる事は、貴殿にとって必ずしも修行になるとは言えぬ。」
相変わらず腕組みをしたままだったが、視線はいつの間にか弟子の手の動きを目尻の端で凝視していた。そして弟子の手がポケットから引き出された時、ピンク色のセロファンに入った飴玉がしっかりとつかまれているのを現認している。一方、弟子は師匠の頭上に何やらじめじめと暑苦しい気配が立ち昇るのを感じていた。これはきっと飴玉に対する師匠の物欲煩悩に違いないと憶測していた。そんな師匠に対して軽いサディスティズムがムクりと起き上がって来る快感に、思わず小さく微笑みそうになるのだった。弟子はやっと興味の湧く遊びを見付け、テンションのコントロールが少々利かないイタズラな目をした少年の様になっていた。一段声色が高くなってしまっている事に気付かないまま会話を続けた。
「でも卒業出来ない事をしてもなぁ。」
そう言いつつ弟子は楽しそうにセロファンをパリパリと開ける。
「心から追求するべきものに、これで終わり、という事はあり得ぬのだ。」
「へぇぇ、終わりが見えないのに、じゃどうやってみんな頑張ってるんでしょうね。」
弟子は半透明の薄いセピア色した小さな球体を、右手の人差し指と親指でつまみ、これ見よがしに先ずは右から左から、次に上から下からとあらゆる角度で、そして実に卑猥な目つきで吟味してやった。飴玉は師匠が想像していた以上の透明度でキラキラと輝き、純粋無垢な少女を連想させた。たった今目の前で弟子の視線に睥睨(へいげい)され続けている飴玉が、なんとも不憫でならないと師匠は思った。あたかも血に飢え牙をむいた野獣が、怯えきってカタカタと肩を震わせるいたいけな少女を睨みつけ、今まさに襲いかかろうとしているところである。
「誰も頑張ってなどおらぬのだよ。」
師匠は人質を取った犯人と交渉するように、慎重な語調になっている。
「頑張らなきゃ、修行にならないんじゃないですか?」
弟子はそう言いながら、自分の口角が上がってしまっているのを感じた。会話を続けながらも弟子と師匠の視線は、あくまでも同じ飴玉に注がれている。弟子が横目で師匠の様子を伺ったとき、師匠の飴玉に対するただならぬ目つきに気が付いた。心の中でよしよしと呟き、間髪入れず弟子は次の手に出るのだった。
 つまんでいる飴玉を窓の明るい方向に向け、自分の右目にグッと近づけた。硝子玉の様に半透明に透き通った飴玉は、見慣れた窓の外の景色を、歪んだ異空間へと変貌させる。弟子は思わず「ほぉ。」と声に出していた。師匠は弟子の破廉恥極まりない挙動にハッと息を飲んだ。きっといたいけな少女の恐怖は最高潮に達しているに違いない。そして今弟子に見えているであろう、いたいけな少女特有な硝子細工にも似た、めくるめく繊細な心中を察するのだった。彼女を通して見るセピア色の世界は4次元的に歪み、いやしくも覗き見る者の視点ひとつで、大きく創造と破壊が繰り返されている事であろうと思った。いたいけな少女の心とは、こんなにももろくて儚いものか!と目眩が襲う。とうとう師匠は組んでいた腕を解き、右手を近くの壁についてしまうのだった。その様子を見た弟子は、勝利の微笑みをこぼさずに居られない。師匠は気が遠くなるのをやっとの思いで振り払い、そして万感の思いを込めこう言った。
「腹はいっぱいになれど、いっぱい感は決して継続しないものなのだ。」
雲をつかむ様な言葉に、弟子の微笑みはあっという間に雲散霧消してしまっていた。
「なんですと?」
「人は欲求と消費の永久機関である。欲求の炎の中に消費すべき薪を焼べ続けるのが人生なのだ。」
「あ、今なんかいい事を言いましたか?」
弟子は飴玉を食べる事も手に持っていることも忘れている風だった。そしておもむろに右手の飴玉で師匠を指差す様にして、
「また今日もいい事を言っちゃったなぁなんて、あとで思っちゃうんでしょ。」
弟子がしぶとい敵に腹いせの言葉を吐いているとき、偶然にも師弟のちょうど中間地点、二人の鼻先にピタリと飴玉が介在する事となった。そして飴玉は互いが映り込んだ四次元世界を、これまた互いにかいま見せたのだ。
 師匠から見た弟子は、背景の家具や壁と弟子の顔がバラバラに混在していいる世界。弟子から見た師匠は明窓を背負う形となり、あの師匠がまるで光放つ羽を広げた天使のように見えてしまった。師匠はその時やっとそれがいたいけな少女ではなく、単なる飴玉であるのだと思い直し、弟子は師匠の実の姿を見たような気がした。師匠は再び姿勢を整え腕を組み直し、おもむろに窓へ向き合った。
「コレと思う道の終わりは、その人の死をもって以外はあり得ないのだよ。もし何かの道で終わりや卒業がやって来たとしたら、貴君にとってその道はただの過程に過ぎなかったと思うがいい。」
「あ せっかくいい事言ったのに、説明しちゃったら台無しじゃないですか。」
この期に及んで負け惜しみの言葉しか出ない自分が「小さい」と自然に思えた。弟子は敗北を認めざるを得ない気分になっていた。そしてもう用が無くなった四次元飴玉は、次の瞬間弟子の体内へポイと放り込まれた。師匠は背後にカラコロンという音を聞き、この瞬間無惨にもいたいけな少女が・・、とまだ考えていた。
「命短し恋せよ乙女・・か。」
「は?なに言ってるんすか?」
弟子の舌にいたぶられもてあそばれているのであろう、四次元飴玉がカランコロンカランコロンと乾いた音を部屋にこだまさせている。
「でもなんとなく分かりました、卒業は諦めましょう。」
弟子の発音は四次元のせいで、かなりモコモコと歪んで聞こえた。
「素直でよろしい。」
「おっともうこんな時間か、僕行かなきゃイケません。」
弟子はそう言いながら、上着やカバンなどを慌ただしくかき集め始めた。
「急がないと待ち合わせに遅れるんで失礼しますよ。」
「うむ。」
弟子はバタバタとドアに向かった。そしておもむろに立ち止まり、その背中を唐突に翻した。
「そうそう、師匠ももっと素直になって下さい。」
そう言いながら上着のポケットから、青いセロファンで包まれたものを取り出した。
「師匠の師匠ぶったところ、僕は決してキライじゃないんですが、そろそろ体面を取り繕うのは卒業してはどうでしょう。それで師匠の奥深さが変わる訳でもないし。飴が欲しけりゃ欲しいと・・・、はい。」
そう言いながら清々しい色の四次元を師匠に渡し、弟子は慌ただしく部屋を出て行った。

 残された師匠は静寂の中で再び腕を組み、窓の外の遠くを見つめながら、青いセロファンを剥がした。中の四次元をつまみ覗き見たい衝動を堪え、一気に口へと放り込んだ。カランコロンカランコロンと舌でいたぶりもてあそんでいると、すぐに甘酸っぱい世界が広がった。
「あれももうすぐ卒業だな。」
と四次元的に呟いた