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音楽的アマチュアリズム私感

【4627文字】

個人的に

なのだが
プロフェッショナルとアマチュアリズムには
どういった違いや特徴
それぞれの長所短所があるのか
経験則的な考察で俯瞰してみることが良くある
これはもう癖のようなもので
大なり小なり17歳から現在に至るまで
もう40年以上も自問している事になる

音楽で食っていくのだ

と決めた高校生は
受験で必死にもがいている同級生や
学校の先生を筆頭にした大人たちに
「何を夢のようなことを言っているんだ」
「現実をもっと直視しろ」
「嫌なことから逃げてるだけだろ」
などと言いつのられ
当時はふと「みんなの言う通りなのか?」と
心が揺らいだ瞬間もあったが
結局は上京し紆余曲折の8年目あたりに
何とか音楽制作だけで生計が立てられ
家庭を持つまでになれた
運も良かったのだ
なので高校時代に言われたそういった言葉は
なんだか頭の端っこに見え隠れしていて
プロになった後でも
「自分はちゃんとできているだろうか」
「怠けているだけじゃないのか」
「現実逃避ではないだろうか」
そういった自問をする癖だけが残り
とうとう染みついてしまったのだろう

プロ

またはプロ意識とは何かについては
既に別稿にて綴ったので
今回はアマチュアリズムについて
個人的に感じているところを話したい
最初に結果を言ってしまえば
プロだからちゃんとしていて
素人はいい加減であってもいい
もしくはちゃんとしてなくていい
という事は全くない
いい加減とか現実逃避とか怠けというのは
その利用価値が必要なレアな場面以外
己の人生において不要なのだ
またアマチュアだからと言って
バカにしてはいけない
マチュアにはプロをも凌ぐものがある
報酬を得るプロだからできない事もある
そして我々はアマチュアに
十分乗せられ興奮し熱くなってもいる

アマチュア

と言って最初に浮かぶのは
4年に一度開催される平和の祭典
オリンピックだ
素人=五輪と連想するのは
今や古い人間だからかも知れない
その昔のオリンピックは
プロ選手の参加を禁止していた
報酬に基づかないアマチュアのみが
栄誉あるオリンピアとして参加できた
しかし社会主義国の場合
国家を上げて選手を養成し
選手らは報酬を受けていないので
アマチュアだと断言しオリンピックに出場
東側諸国の金メダルラッシュによって
プロパガンダに利用されたりした
民主主義国家に不平が充満し
結果段階的にプロも参加できるという
良く分からない五輪が出来上がってしまう
これはもう両陣営とも
プロのオリンピアが混在する大会といっていい
しかしこれよりもっと古い時代の人間なら
五輪開催中はどんな国家部族間紛争も休止する
という決まり事があったのを知っているはずだ
今やそんなルールはどこへやらだ

そもそも

オリンピックの性質が
国家間によって競う仕組みなので
見る側は多かれ少なかれどうあっても
ナショナリズムはくすぐられてしまう
普段見ない競技でもオリンピックになれば
国民はにわかサポータとなって自国を応援し
日本頑張れ!アメリカに遅れを取るな!
中国韓国なんかに負けたら日本の恥!
などとなかなか普段聞けない危ないワードも
堂々とTVから発せられたりする
世界中が国粋主義的に駆られ
精神世界だけ見れば各国間は
相当分断しているようにも感じられる
ちょっと話が逸れた・・
ともあれ五輪は平和な素人の祭典だった
そしてこんなに我々を熱くさせる
その選手たちのほとんどは
アマチュアであるという事実
我々はアマチュアの競技を観戦し
一喜一憂している事実に気付くべきなのだ

日本においては

中途半端なオリンピックと違って
明らかなアマチュアであるにもかかわらず
見る者の目を釘付けにし
尚且つ興奮に湧き落涙を呼ぶ競技がある
それは全日本高校野球選手権
選手は紛う事無く全員素人である
野球という競技は他のマイナー競技と違い
プロとアマの段差がしっかりある競技でもある
高校生たちの技量や経験値
そして人間の内面的形成も含め
プロと比べ全てが発展途上であるのは
誰の目にも自明であるにもかかわらず
多くの国民が熱く球児らにエールを送るのは
いったい何故か
勿論オリンピック同様に地元贔屓というのもある
しかしその決勝戦などは
どの地域の誰が見ても
必ずと言っていいほど感動させられるのだ
これこそがアマチュアリズムの真骨頂
無欲のなせる業なのだろうか

どんな事でも

シナリオなしに起こる事件は
この先どうなるんだという好奇心に駆られる
客観視している者らは
いろいろ頭を巡らせワクワクしてしまう
そこへ想定外の事件が起こるのだから
そりゃ興奮しない訳がない
勝利の女神による采配という
つまり偶然の産物が感動を生む
我々はそう解釈してそのドラマに酔う

しかしプロは

この偶然の感動を予めシナリオにしてしまう
勿論シナリオ通りにならないことも多々あるが
プロなら最初から偶然など期待しない
予め戦略や道筋などのシナリオを用意し
プロ選手なら期待通りのプレーが
どんな場面でも出来るよう日頃から厳しく訓練し
技術と共に負けない精神をも醸成しておく
プロミュージシャンのステージは
演奏順やMCはもとより
音響効果や照明や舞台演出も
一縷のズレも出ないように仕組んでおく
舞台におけるお芝居や映画やTVドラマ
これらは一歩たりとも
シナリオの筋から踏み外してはならない
シナリオ通りやってもちゃんと感動が伝わり
この時点ですべては想定内に落とし込まれ
それでも観る者を虜にできるのがプロの仕事だ
最初から偶然などは期待しない

プロ野球

の様なスポーツでさえ
一試合一試合にちゃんとシナリオはある
それにこたえられる技術を持った者が
プロの選手という事である
では高校球児らがそれをしないかというと
最近は一応シナリオを用意しているようだ
しかしそこはアマチュア
さすがにほとんどシナリオ通りにはならない
技術のあるプロのように狙い通りにできないのだ
しかし往々にして
シナリオを外れライブで起こる偶然の展開こそが
感動や興奮を生む発端となる
何故アマチュアの高校球児に
感動を呼び起こすことが出来るのかと言えば
この偶然の産物と言っても過言ではない
ただしそれには必須の条項がある
「無我夢中」とか「一所懸命」とか
競技に対しピュアに対峙する気持ち
これがとても重要だ
これさえあればそれがもし幼稚園児の
シナリオ通りにいかないお芝居でも
ちゃんと感動できるものだ

とかくアマチュアは

プロの数段下
と言ったように見られがちだが
実は価値観や立場があまりにも違うので
単純に比較できないのではないかと思う
どの分野でも
アマチュアからプロになる場合がほとんどだろう
なのでどうしても
アマチュアはプロの下という意識が生まれる
果たして本当にそうだろうか
前述したように
プロにはシナリオがある
つまり最終的な落としどころへ誘導できる
そんな技術力や精神力が絶対必須である
それはどんなプロでもそうだろう
プロなら設計図通りの家を建てられて当然
同じ商品を均一に作れない工場はつぶれる
プロはあらかじめ決められたシナリオ通り
希望された通りの成果物を残さねばならない
しかしアマチュアはその必要がない
何かを始めて途中で気が変わって
全然違うものが出来上がっても問題ない
やめたっていいのだ
それは何故可能かというと
勝手にやっているからである
誰かにさせられているわけではなく
誰かに望まれているわけでもない
自分の意思で思うままやっているだけなのだ
つまりアマチュア精神のベクトルは
いつも自分に向いている
プロのベクトルは反対方向である
有体ありていに言えば
お金をくれる人に向くものだ

高校球児は

一所懸命自分に忠実にやればいい
一度しかない己の若さと青春のすべての魂を
一球一球に込めてやればいい
観戦者はその真っすぐな気持ちに期待している
プロ野球選手は球場やお茶の間のファンを
これでもかと盛り上げるのが使命なのだから
毎試合を感動に溢れるものにする義務がある
それを身につけている選手らの
技術やパフォーマンスは
夜な夜な観戦者を狂喜乱舞させるのだ
どちらが偉くてどちらが凄いという
そんな単純な話ではない
どちらも人の感情をくすぐることが出来る
素晴らしい表現だと言える

ではプロは

どんなシナリオを用意しているかだが
どんなプロでも参考にするのは
最終的にはアマチュアからじゃないだろうか
全く知識も技術もない子供でも
夢のお城や未来の街を描くことが出来る
明るい太陽の下で西洋風のお城に
家族とペットを住まわしたり
空飛ぶ車の飛び交う未来都市が描かれる
現実離れはしているのだが
話を聞けばちゃんと
それぞれに描かれたものには訳がある
そしてそれは夢の世界だ
プロはここを目指している
あり得なかった絵空事を
その類稀な技術と経験をもって
ほんの少しずつ実現していくのだ
彼らプロは発注者の希望も叶えるが
勿論提案もする
出来ればその提案は夢のようであってほしい
そんなものが出来るのならぜひお願いしたい
そう思わす夢の様な提案だ
夢のようなことはアマチュアの空想にこそ
現れやすいものだ

夢のような事

とは何かというと
それこそが素人臭い事なのだ
9回裏2死満塁0対3で負けている
夢の様な展開はヒットなんかじゃない
勝ちさえすればいいという訳ではない
普段の憂さをパーッ!と晴らすような
豪快な特大満塁ホームランをぶちかましてほしい
しかしそれが出来るのはプロだけかというと
決してそうではない
高校球児だって草野球のおじさんにも
それをしてしまう可能性がある
むしろプロがするより
アマチュアがしでかした方が
より非現実的でもあり感動的でもある
プロはこの感動を超えられるかというと
技術と経験があるだけに
さもありなんとされる分だけ
感動度数は少し落ちるのではないだろうか
プロはアマチュアのしでかす
夢のような感動を引き起こすシナリオを
いつも狙っているのだが

それはつまり

プロ中のプロである人がいても
尚且つそのプロをも超越した人というのは
むしろもうアマチュアっぽいのではないか
という仮説を立てる事が出来るように思う
つまり高校野球のピュアな感動を
プロの立場でも出来る人なのではないか
プロスポーツならそういえば過去に
多くの感動的な場面を目にした
そこには仕事とかお金とかスポンサーとか
そういったイメージは皆無であった
プロスポーツ選手らは単に
アマチュアっぽく真剣にスポーツと
向き合っただけだったように思う
その瞬間は既に
プロの根本にある発注者やお金という
仕事チックな部分をも超越し
結果として発注者やスポンサーを満足させ
結果の金銭を受け取っているに過ぎず
むしろその意識や精神は
アマチュアリズムに溢れていたのではないか
そんな風に思うのだ
分かりやすいのでスポーツを例にしたが
他のプロフェッショナルも同様である
仕事や作業に没入している時
発注者や報酬など忘れている瞬間
そういう時は
きっといい仕事をしているのだと思う
本来プロが目指すべきは
アマチュアリズムではないかと思うのだ

大変有名な

ジャズミュージシャンがいる
テクニックはもちろん
複雑な音楽理論にも精通し
どんな状況であってもアドリブを求められれば
満艦飾のフレーズやオブリを
会場いっぱいに溢れさすことが出来る
しかしやはり求めるものが高尚過ぎて
決してポップなものにはならず
一般の聴者には少し難解な音楽になってしまう
こういう人ほど実はその精神は
とてもアマチュアチックだったりする
自分に向き合う状態が長く
それはとても利己的にも見える
同じプロでもポップカルチャーな音楽家は
万人ウケするものを作るのが仕事だ
そして彼らは聴者の気持ちや
時代の要請 つまり流行などを重くとらえる
自分自身の意志は二の次に考える
クライアントや聴者
つまりお客様第一に考えるのだから
その意識はとてもプロフェッショナルだ

どちらがどう

という事ではない
しかし客観的にこの両者を見た場合
アマチュアリズムに先祖返りしているのは
明らかに前者である
己の為だけにやるのがアマチュアではあるが
技術も理論も精神もプロを超越すると
アマチュアリズムの権化の様になるのではないか
アマチュアリズムとはそれだけ貴重で
深淵で清々しく難解でもあるのだと
思えて仕方ない