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時代に適した教育

【3803文字】

注意⚠️
大変読みにくい文章であるので
めんどくさい人はここで折り返すべし


現在行われている教育はあたかも個人の為である様に見え、古い社会体制の為にあった古い教育方法である。戦後直後から経済復興までには必要だった教育方法ではあったかも知れないが、今や旧態依然とし実状に不釣り合いで来る未来とコンフリクトした状態にある。この規格通りの単一指向な若者を量産する型にはめる鋳造的教育の利点を探すなら、唯一国家や大企業にとって都合の良い人材作りが出来ることぐらいであるが、これも近々に実状にそぐわなくなっていくだろう。この古い教育方法は4世紀の中国で始められた科挙と根本的に大きな違いはない。なぜ1600年以上も使い古されたものをいまだに使い、なぜ社会の変容に適した教育が出来なかったのか。今や常識的に暗算や辞典などに頼らず表計算ソフトやweb検索を利用するに等しく、これらを今後子供らに教育する意味は実質無くなっていく可能性はかなり高い。また今後AIがあらゆる場所への進出が予想されているが、現教育の目指す場所がAIの最も得意とする計算や記憶学習などである事に注視すべきであろう。ただし学ぶ姿勢というものは身に着けるべきである。つまりは時代に合わせて学ぶ内容や学び方を考え直す時がもう目の前まで来ているという事である。ではその学ぶ内容とは何かというと、簡単に言えば独自の興味や得意を伸ばす教育という事である。それならすでにあらゆる現場で提唱され実行されていると言う人もいるだろう。しかし実質の意味で本当にその様になっていると言えるだろうか。最終的に進学学習が主軸になってはいないだろうか。その現行の伸ばす教育のおかげであなたの周りに独自の興味や得意を伸ばし、自身の生活に組み込み社会に貢献させているという人が果たして何人いるというのだろうか。もし居たとしたらその人はむしろ現教育を途中放棄または不幸にも甘受できなかった人で、自力で社会に溶け込み努力した人ではないだろうか。それはつまり現教育方法が本当の意味での伸ばす教育の邪魔をしているとは言えないだろうか。幼少期より学校の成績が良く、良い大学を出て大きな会社や公務員、官僚などになる人は、虫好きの子や走るのが得意な子の様に、他の人より単に座学が得意だったのである。しかし彼らは国にとって大変都合の良い官僚や公務員、大企業の社員候補であり、こういった人材だけが成功者や勝ち組と言われた。これまでの日本の教育はそこを重視するあまり、虫好きや足の速い子どもは努力を怠ったのだから落ちこぼれだと断定し、国はそれらの者に対し官僚や大企業などと同等の社会への足掛かりを何ら用意してこなかった。弱者の子どもに責任転嫁する事で国民はまんまとその歪んだ理屈を納得させられ続けた。これは言わばプロパガンダで隠された差別といってもいい。そもそも大企業の社員や官僚になった人らが胸を張って幸せな仕事に就けていると言えるかどうかも怪しい。
日本国憲法第13条に「すべて国民は、個人として尊重される」と明記しており、生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、最大の尊重を必要とすることを述べている。つまりどんな子も皆自由で幸福になる権利を最大限に尊重すると言っているのだ。にもかかわらず現行教育の国の教育に対する姿勢は未だ旧態依然とし国家や大企業にとっての好都合人材作りに留まっている。本来義務教育というのであれば国はそれを受けたすべての子供らに次の社会へのステップを等しく用意するべきであるが、最終的に高学歴と言われる者に対してのみに準備するに留まっている。しかしその高学歴者の職は間もなくAIに取って代わられる。お払い箱の高学歴者がどっと溢れかえる日がもう間もなくやって来る。国の失策であったとしても、確実にやって来る未来に今から準備対処しなくてはならない。

人間は生き物であるから本来大量生産の既製品の様に画一的にはなり得ない。一日中本をずっと読んでいられる子もいれば、一日中太陽の下で駆け周っていたい子もいる。これは誰かが人為的に植え付けたものではなく、自然の摂理の中での揺らぎが作り得る先天的な個体差である。昆虫が好きな子に徒競走で1番を目指せと押しつけ教育するのは実に酷であるし、またその逆もしかりだ。ならばその時点で得意な分野を思う存分させてやればいい。そういった中から世界的にも突出した才能は現れるであろうし、そういった子はきっと国の役にも立つだろう。突出するまでもいかずとも地域の先達などになるには、きっと徒競走が早い子より適任であろう。何より好きな事を存分に学べることは本人にとって大変幸福な事である。しかし現教育法は画一的な人格を量産する教育方法であり、近所を見渡しても徒競走が得意だった子が全く別の仕事をしているという様な例ばかりである。これはこの人も不幸であるが、この会社も同僚らも顧客も、ひいては国家にとってもベターとは言えなくないだろうか。それはどう考えても試験の成績優秀者のみを目指すような単一指向的教育をし続けて来た弊害である。教育指針や施策の大掛かりな方針転換が必要であるが、それを困難にしている理由のひとつに、この新施策を決めるのが量産教育で成功した人々だからというのがある。これをするにあたり彼ら自身はこれまで努力で勝ち取って来た現在の地位を、根本的に否定する事から始めねばならない上に、量産教育で辛苦を味わった人々の感情や感覚が全く分からないという点にある。両者が納得できる新たな施策は、如何に両者の意見をしっかりと聞き込み反映させられるかにかかっている。その方向性を示すひとつの例がある。

ジャン・ジャック・ルソーが「エミール」を発表したのは今から300年程前の1762年。発表後すぐさま発禁になる程当時からすれば超革新的な内容だった。ルソーが夢想した教育論は現代人が読んでも同意しかない内容であり、言ってしまえば未だに未達成の教育目標である。かと言って非現実的な理想論かといえば今や決してそうではない。残念だが日本の教育もまだまだ300年前に立てられた目標には至っていないのだ。以下にその代替の内容を示す。

自然教育:
子どもが持つ自然な能力や本質を引き出すことを重視。

消極教育:
知識を詰め込むのではなく、感覚器官の訓練や経験を通じて学ぶことを優先。

発達段階に応じた教育:
 乳幼児期:
  健康と基本的な生活習慣の確立。
 幼児期:
  感覚を働かせ、快・不快を学ぶ時期。
 児童期:
  好奇心を育て、学びの有用性を理解する時期。
 青年期:
   理性を育て、道徳教育や市民教育を行う時期。
 成人期:
  社会的・政治的教養を高める時期。

子どもの発見:
子どもを独立した存在として認識し、その人格や自由を尊重する。

個人差の尊重:
子どもの個々の特性に応じた教育を行う。

ルソーの教育理論は子どもの自然な成長を重視し、知識よりも経験を通じて学ぶことを強調している。これが日本の教育ではほとんどできていない事だと感じる。どうしても日本の教育は教え込むとか詰め込む教育が中心だ。子どもの自発的な気付きや驚きが学びに深く関与していくには、学びの興奮が必要だと考える。虫が好きな子、徒競走が速い子、音楽が得意な子、それぞれに同じ教育を施しても学びの興奮は現れない。その分野に特化し、発見と気付き、成果の自覚などが彼らの学びの興奮へとつながる。学びの興奮は知的欲求や技巧的欲求に火を着け、子どもの自発性や独自性が爆発的に生まれるのだ。そうやって新たな刺激を心から欲求する学びの土台が出来上がる。学びの準備はそうやって整う。現在の様に同じ年齢の者を同時に入学させ同時に卒業させる事は、生徒のより良い学習や学びの為ではなく、教える側の学校や教育委員会や大人の都合にしか過ぎない。煮え立った鍋に肉も野菜も麵も米も調味料も一気に投入し煮込み、同時に皿に上げるに等しい。このやり方は火の通ったもの、煮込み足らないもの、煮込み過ぎのものを同時に量産してしまう。個体差も考えず、しかも学ぶ側の準備状態もないまま教室で教科書を開き淡々と教師が語るという教育では、それぞれの個性ある才能の学べるポテンシャルをわざわざ潰しているようなものなのだ。もちろんルソーが言ってる事がすべて正しいとは言わないが、300年前に提唱されていた事すら出来ていない事実も我々は謙虚に認めざるを得ない。

教育は子ども人生の最初の期間に大変大きく寄与し、柔らかく多くを吸収できる脳や筋力にとって大変重要なプロセス期である。子ども自身がいくら最良の教育を望んだとしても、環境がなければ授かることは絶対に叶わない。であれば大人たちが彼らの幸福な人生を担保するつもりで、しっかりと道付けをしてやるのが道理であり義務である。ところが現状は国家や教育者、親、地域などがそれぞれ大人の都合でモノを言い、肝心な子ども自身の幸福については全く語られないという本末転倒がまかり通っている始末。教育については先ず誰が主体なのか、何を目的にしているのかを明確にし、確認し続ける基本的な態度を忘れてはならない。さもなければ今後老齢化する他ないこの国が浮き上がることはあり得ず、国は不遇に育った人間に溢れ、社会全体が不幸感に浸り続けることになるだろう。教育とは国の未来への投資であり、また個人の幸福の基礎構築でもある。時代が変われば社会も大きく変わる。社会が変われば人も変わり、常識も変わる。それを常に感じつつ能動的かつ機動的に教育を変革をし続けることが肝要である。