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自己満足の穴

[4666文字]
あくまで音楽の話である。
しかも自作楽曲の話であるので、メンドクサイ話であるから嫌な人は読むのをここで止めるといい。

「ドリルを買いに来た人は、ドリルではなく穴が欲しいのだ」という理論(理屈)がある。ロジック的には良く出来た一瞬説得力がありそうに思えるフレーズだとは思うのだが、本当にこの言葉通りかどうかを実証する方法はなかなか難しい。ホームセンターの出口でドリルの購入者全員にアンケートを取るとしても、早く帰ってこの新品のドリルを使いたい人に「あなたは穴が欲しかったのですか?ドリルが欲しかったのですか?」と聞いても、その意図をしっかりくみ取る前にきっと適当に答えて早々にその場を立ち去られるような気がする。

これは目先を変えて見ようというマーケティングの理論(屁理屈)なのだが、僕がマーケターならこの言葉を聞けば益々路頭に迷ってしまうだろう。カスタマーの欲しい穴をアピール?とか、本当によく分からない。
それよりもやはりドリルを全面に押し出した方が売る方も買う方もお互いの都合でそのスペックや価格を解釈しやすいように思うのが道理ではないだろうか。ドリルと言っても数千円のものからプロ用ドリル(インパクトドライバー)は5万円のものとかもある。しかし同じドリルの刃を使えば出来上がる穴はきっと大差ない。取扱いやすさやモーターのパワー、ドリルの刃やビットの装着具合やモーターの静音性などなど、痒い所に手が届く仕様かどうかも大きな違いだが、この日曜日に壊れた棚をちょっと補修するだけの日曜大工で、その後もほとんど使わないというなら3,000円程度のものでも高く感じるだろう。毎日仕事で何時間も頻繁に使う道具ならば少々高くても壊れにくい方がきっと良いし、至れり尽くせり仕様なら作業効率の良い方を選ぶだろう。そこはやはり売り手も買い手も自分の都合で要不要を判断する所じゃないだろうか。

ドリルを売る話をしたいわけではない。あくまで音楽の話である。若いころ「お前の曲は自己満足の塊だ」と言われたことがあった。まだ作曲家として仕事をもらっていなかったころ、拙い曲を作ってはカセットテープに吹き込み知り合いの作曲家の家に押しかける。曲の寸評添削をお願いしていたのだ。「人様にアピールしようとするポイントがない」「自分さえよければいいという曲ばかり書いていても無意味だ」と言った少々辛辣な内容だったのでよく覚えている。しょっちゅうやって来る若者に辟易としてもいただろう。その作家はアイドルや歌手に曲を提供したり、自身がデビューしているバンドのフロントマンでキーボーディストでもあった。自己満足と言われても全くピンと来ず、具体的にどうマズいのか色々聞いてはみたが一向に理解出来ないままで終わってしまった。

数年後なんとか職業作家として食えるようになった頃でも自己満足になってはないだろうかと自問してはいたが、その判別が出来ずにいた。職業作家というのは作曲の先生らやアーティストと違って顧客が求める曲を如何に再現出来るかが勝負である。ロック、クラシック、演歌、フォルクローレ、民謡、映画音楽、前衛音楽、スイングジャズなどなど、ありとあらゆる音楽を聴き込み、それらを再現できる能力が必要である。言うならば己の好みなどは全く不要と言ってもいい。その仕事の制作プロデューサーが「ジャングル的音楽だよ」と言えばパーカッシブな曲を作り「刑事が取り調べ室で尋問してる空気が欲しいな」といえば4ビートのウォーキングベースな曲を作る。その判断に決まったロジックがある訳ではなく「それならこんな風にするといいかな」という具合に、やはり自分の感覚に頼らざるを得ない。その判断が自己満足といわれるともう何がなんだかよく分からないのだ。ではあの時あえて自己満足でやるとしたらどうだっただろう。僕が好きなのはBeatlesを筆頭とした質の高いPopsだったが、そんなのが全ての発注に当てはまる筈もなく、都合よくそんなのばかりを仕事で求められることなんてあり得ない。そして好きな楽曲を追求する時間もほとんど無かった。

ある時友人が曲を作って遊ぼうというのでスケジュールを見直して無理に1日丸々空けた事があった。友人も作曲や編曲、コーラスなどの仕事で忙しい男だ。彼も自分の音楽をする時間が持てずフラストレーションが溜まっていたのかも知れない。その時僕らはPinkと名付けた曲を即興で作った。誰の発注でもなく自分らの為に作るのだが、僕らは真っ先に空想の「要望書」を書き始めた。
・明るくダンサブルなLA Pops。
・打ち込み然としていて良い。
・複数名の歌い込みあり
・男女の駆け引き的男性歌詞
他にも細かく多くあったように思うが、これをキーボードの上の譜面台にペタリと貼って作業に入った。とにかく2人とも既に他人の要望に応えるという形でこそ作れるという情けない体に成り下がってしまっている。本当の天才ならこんな「要望書」なんて不要だろう。思いつくままに楽器と戯れている内に泣ける曲が1曲ポロっと生まれるはずだ。ところが我々ときたらどうだ、日々の作業でもう最初からそんな事では曲は出来んと知っていて、楽器もパソコンも触る前から早々に「要望書」を書き始めたではないか。これが音楽をクリエイトする人間のやる事か。この時とうとう我々は、少なくとも自分はアーティストなんかではないのだと自覚せざるを得ない事実と向き合う事になったのだ。アーティストではないが、自己満足の曲かどうかと言われれば判断がつかない。何故なら誰かにお願いされたわけでもなく、かといって無性に作りたかった訳でもなく、自分ひとりで作ったわけでもない。

そこで穴である。
結果はとにかくどれも全部ただの穴でしかない。どんな立派なインパクトドライバーで開けようが、安物のドリルで開けようが、開けられた穴からその機材のクオリティーや、穴を空けた本人の気持ちなどを察する事はほぼ不可能であり、また察する必要もない。曲も然り。どんなクソ汚物根性で作曲しようが、乙女の高尚清純な心で作曲しようが、出来上がった曲だけを聴いて作曲者のその本当の心根まで推し量ることは出来ない。ところがその周辺がモノを言ったりするからややこしい。いかにも上品で高価な調度品が並ぶ豪邸の家具のひとつ、丁寧に作られたスツールの補修として開けられた穴と、ほぼゴミ屋敷と違わぬ廃物が山積みされた片隅、ボロボロに崩れかけた鳥小屋に開けられた穴では、その穴を空けた人物を想像すれば大きな差が生まれて然りであろう。しかしその想定は本当に正しいのか。穴は穴であれば十分ではないか。
同じ曲を聴かされ「これは中学生が作りました」と言うのと、「これは主席で〇〇芸大を卒業し、〇〇音楽祭で最優秀作曲賞を受賞したこともある人の作品です」では聴こえ方が違っちゃう人が多いのだ。

資格がある訳でもないのに難易度が非常に高い作曲という仕事を選択した時点で、若かった僕は非常に焦っていたと思う。とにかく誰かに認められねばならない、でなきゃ始まらないと息を切らして曲を作っていたと思う。当時作曲家の先輩に聴かせていたテープが残っていて、それを聴けば瞭然であるが、言葉にするなら「なんとまあどこまで世間に媚びを売った楽曲たち」という印象である。当時売れていた様な楽曲の塗り替え、着せ替えでしかない。先輩の言う「自己満足の塊」とは「自分の思いの丈を勝手わがままに」という意味に捉えていたが、それは真逆の天才がするやり方だった。先輩が言っていた自己満足というのは、手っ取り早く仕事という形にしたいという心根が「所詮世間はこんなのがいいんだろ?」という実社会を軽く見積もって粋がった己の欲望のみの楽曲、という意味だったのだろう。

そして数年後、友人とともに作ったPinkと名付けた楽曲も残っている。当然時代も機材もテクニックも違うので、完成度は前者とは雲泥の差ではあるが、これは「要望書」から始まっている分、「己の自己満足」感は前者に比べグッと影を潜めてはいるものの、小手先感は否めない。そしてチャレンジも無いのだ。少々仕事をやってきた分、どの線までやれば十分通用するかが分かっている感が満載で、全く自分らの個性であるはずのチャレンジが成されていない。つまり「この程度で世間は騙せる」という具合で、実社会を軽く見積もって粋がる態度は以前と何にも変わっていなかったのだ。

ドリルの穴に違いなんかないと思っていたが、ひょっとすると流れ作業でボンボン開けていった穴と、気持ちを込め慎重かつ大胆に開けた穴では微妙に違うのかも知れない。1/4インチのドリルが100万個売れたのは、1/4インチの穴が100万個以上求められた結果だというこの屁理屈。「卒業写真」というユーミンの楽曲で 「卒業写真」=穴 ユーミン=ドリル とした場合、みんなはユーミンを買っているのだが求めているのは「卒業写真」という事になる。じゃあ「卒業写真」だったらド素人のカバーでもいいのかと言えばそうではない。人はユーミンが歌うあの「卒業写真」という曲を聴いて感動し、再びその感動が欲しくてユーミンの新作を購入するという構図が見える。最新作の購入者はこの未発表作の出来栄えについては何も分からないまま購入する。それでもユーミンが売れるのは以前に購入者が「卒業写真」を聴いて感動したからであろう。あの感動を再び味わいたく新作を買うのだ。同じドリルの刃を買えばまた似たような穴を空ける事が期待できる。穴=感動  ドリル=作家  と要約できる。人は感動が欲しくて作家を求めるのだ。そして人は新作「中央フリーウェー」を耳にして期待した通りの穴に満足する。

では職業作家の作品はどうだろう。これまで仕事で作って来た作品は異常なほど多くある。がしかし問題は感動だ。クライアントやプロデューサー、スポンサーが求める楽曲は散々作ってきたが、それが感動を生んだかと言われるとハテナである。そもそも感動させようと思って作っていないのだから仕方ない。つまりアーティストではない作家が作った音楽はせいぜい量産廉価版のドリルの刃を作った既成事実にすぎず、肝心の穴を空けるに至っていない事だと思ったのだ。

長くやって来た仕事でもあるし、今でも好きで趣味として楽しめる作曲という作業であるが、恐らく技術も経験も十分にある。ここへ来てやっと自作に無いものが穴だったとは恐れ入った。20代で既に自分はアーティストではなく技術者や職人寄りの作家だと自覚していたが、まさかそれが感動を切り捨てていたこととは思いもよらなかった。しかし音楽で現金を安定的に得る上で技術者に徹する事は非常に重要であり「作品を理解してもらえない!」とか「自身の内面と対峙するのだ!」とかといった煩わしさは、より多くの仕事をこなすのにはただ邪魔でしかない。そういったものを極限まで削り落とすことが自分の仕事でもあると思っていて、それはそれで正しかったのだろうけどその時に感動も同時に削り落としてしまっていたのだろう。ところが仕事ではなく趣味で作品を作るようになると物凄い欠落感を感じざるを得なかった。この足りない感は何だろうと思ったらまさか穴だったとは思いもよらなかった。作曲が仕事になってから30年も経って気付く事ではないかも知れないが、あえてその穴の部分、つまり「感動」とか「自己満足」とかを無理して削ってきた覚えがあるので、今後はもっと穴を意識してドリルを作ろうかと考えている。ドリルの本来の目的を達成させなければと思う。



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