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シャボン

[4423文字]

天気の良い初夏の昼下がり。僕は営業車で比較的新しい分譲建て売りの団地に行っていた。客と約束していた時間より少し早かったので、まだ何も建っていない空き地の前に車を停め、深くため息をつきながらシートベルトを外し、ここぞとばかりにゆったりと座り直した。
今日も殺人的な暑さだと思った。

ふとフロントガラスの前をキラキラと半透明の玉がふわふわと横切るのを見つけた。シャボン玉だ。見回すと道を挟んだ家の駐車場で、一人の少年がしゃがみ込んでせっせとシャボン玉を作っている。
その白っぽい住宅の駐車場は広く、普通車なら余裕で2台分のスペースがある。遠慮なくその真ん中を陣取り悠々とシャボンを飛ばしている少年の様子から、おそらくその子はその家の子で、夕方か夜まで車は帰ってこないのだろうと思った。茶色く半透明の屋根が日差しを和らげ、駐車場の白いコンクリートと少年を殺人的灼熱から守っている。

半ズボンにTシャツ、白い野球帽をかぶった少年は、右手にストロー、左手にはシャボンが入っているであろうプラスティック容器をにぎりしめている。首を伸ばしストローをぷぅーと吹いては左手の容器に差し込み、また上を向いてぷぅーと吹く。男の子の視線はまばらに舞い上がるシャボン玉をにこりともせずに見つめている。むしろ不機嫌な表情にも見えるがその目は真剣そのものだ。その焦点のもう少し奥で僕が見ている事にも気付いていないようだ。
しかし僕には一瞬で分った。彼は今ひとり幸せを感じながら不思議の旅に出ているんだと。これを無垢で無邪気で子供らしい姿だと他の大人たちは見るだろう。しかし僕は少し違うことを思い出していた。本当になんでもない事なのだ。もう随分前の事なのに、このシャボン玉の少年を見ていてふと思い出した事があった。なんだかとても切なくて怖くて、でも幸せだったころの記憶が、奥の方から蓋を押し開ける様に蘇ってきた。

1970年代、その時僕は新宿駅の西口地下通路で路頭に迷っていた。おそらく4歳か5歳の冬だっと思う。母親に手を引かれ出かけていたのだと思うが、何の用事だったかなどは全く覚えていない。そして何故母親とはぐれたのかなどの原因も、今となっては分かるはずもない。間違いないのは大人が右往左往するこの地下広場に、ただなす術もなく一人で立ち尽くしているという事実だった。
最初は寒くて不安で胸がつぶされそうになっていたのだが、時間が経つにつれ恐怖心は次第に薄れて行った。腹が座ったのかも知れない。コートを着込んでマフラーをした大人たちは皆同じように見える。黒っぽくてちょっと大きい人と、黒っぽくてちょっと小さい人ばかりだ。人の流れには波があった。目の前を多くの人が行くと視界を塞がれ遠くは全く見通せず、無数の靴音が激しく重なって耳を塞ぐのだった。その音はまるで頭のすぐ上のトタン屋根に降る土砂降りの様だと思った。また少しすると人の波は何処かへと流れ消えて、少し静かになった構内のずっと遠くに見慣れた京王線のマークが見えたりもした。そしてその看板の奥から再び黒い大人たちの塊が押し寄せてくるのが見える。きっとこちらへやって来ると思っていたら、突然背後からトタン屋根の音が近付いてきて、あっという間にまた僕は大人たちの波に飲み込まれてしまう。

大人たちの波はその都度僕を飲み込んでは、右へ左へと少しずつ違う場所に運んで行った。波が収まれば僕はその場にまた立ち尽くし辺りをキョロキョロしたが、本来居場所を確認するために看板や目立つ物などの目印を観察するべきなのだろうが、当然その頃の僕にはそんな知恵もなく、また飲み込まれるかもしれない大人たちの大波を警戒して人の波ばかりを観察していたのだった。
そしてまた右から大人たちの波が押し寄せて来た。僕は再びその波に押し流されるまま何処へともなく運ばれたが、気付くと大きな柱とごみ箱の隙間に挟まるようにして立っていた。すぐ目の前を黒っぽい厚手のコートや硬そうなカバンが行き来はするが、その隙間にいれば再び僕をさらって行くような事はなくなった。
波は右から左からやって来ては消え、正面からやって来ては目の前で左右に分かれて行く。僕はこの隙間にしばらく居ようと決めた。いくつもの波がトタン屋根の音を伴って押し寄せては消え、又押し寄せしたが僕に影響はなかった。

どのくらい経っただろう、僕は疲れてしまっていたし少し眠くもなっていた。いつからかしゃがみ込んで柱を背にして人々の足元をじっと見ている。コンクリートの柱やタイルの床から伝わる冷気が、全身をさらに縮こまらせる。似たような無数の暗い色の靴や裾が、足早に目の前を通り過ぎていく。この足達はそれぞれが意思を持ってどこかに向かっているはずだ。目的地がそれぞれ全く違う所にあるのに、何故大人たちは大波の塊となっては同じ方向へと向かうのだろう。とても不思議だったが、そんなに一所懸命にその事を考えていた訳でもないと思う。
ひょっとしたら僕もこの波に上手く船を浮かべれば、あの家族のいるいつもの家に帰れるのかも知れない。あの暖かくて不安のない幸せな家に。
胸の中心にほんのりオレンジ色の明かりが小さく灯るのを感じた。頭のすぐ真上にあったトタン屋根が、次第に高く上がっていく感覚が気持ちいい。それに合わせて靴音も遠ざかり、代わりに心地よい波の音が全身を包んでゆく。
うつらうつらとした頭で何故か僕は半年前にシャボン玉で遊んだ夏の日のことを思い出していた。きらきらと太陽がまぶしい蝉時雨の昼下がり。あれはなんだかとても楽しくて幸せな時間だったんだと。

あの日、僕はおそらくひとりだった。自宅がある3階のベランダで夏の日差しを受けながらシャボンのボトルを左手に持ち、右手にはストローを持ってしきりに空に向かってシャボン玉を飛ばし続けていた。ここは3階、高い位置から飛ばすシャボン玉は気持ちいいし、シャボン玉の表面をうごめく虹色がなんとも不思議で魅力的だった。その色はとても律儀に全てのシャボンにあった。ほんの数秒間、僕にだけ見られるために現れてはパッ!と消えてしまう。それだけのために、それでも世界の全ての色がその小さな玉の表面にはあったように思った。

シャボン玉同士がぶつかり合うと、時には互いに跳ね返し、時には合体し、時には一方だけがはじけ、また時には共にはじけ消えた。風や街の音で耳には聞こえなかったけど、シャボン玉がはじける度にパッ!パッ!と頭の中だけで小さな破裂音が聞こえていた。シャボン玉もまちまちで、小さく生まれるもの、大きく生まれるものがある。ストローをゆっくり吹くと比較的大きいシャボン玉が生まれた。もっと大きいのをと思いもっとゆっくり吹いてみるが大きいものどころかストローの先には何もできない。そのどちらでもないギリギリのあたりを慎重に探りながら吹いてみると、大きめのシャボンが1、2個生まれる。大きなシャボンは重いせいか足元に落ちてすぐに壊れてしまう。

今度はいつまでも風に乗って飛んでいくシャボン玉を作りたいと思う。少し勢いをつけてストローを吹くと小さめのシャボン玉がたくさん生まれた。その中のいくつかはとんでもなく遠くまで飛ぶものもあった。
彼らの最初の難関はベランダの鉄格子だ。鉄格子に阻まれればその一生はそこで終わる。その中の一部が幅15㎝程の隙間を縫って外の風に乗って何処までも飛んで行った。
ならばもっと沢山吹いてやろうと思ってもっと勢いよく吹いてみると、ストローがシューッ!っと鳴るだけで何も生まれてこなかった。再びそのギリギリのあたりを探ってみると、ワッーっと小ぶりで賑やかなシャボン玉たちがたくさん生まれた。上昇気流に乗ると多くは鉄格子をすり抜け、光の空へと揃って向かう。夏の青空に浮かぶシャボン玉たちは、上下左右てんでに広がりいずれ消えて行った。

生まれてすぐにはじけて消える者、空中ではじけてしまう者、地面に落ちてはじける者、地面に落ちてもはじけず頑張る者、ふわふわと何処までも飛んでいく者。同じ動きをする者などどれひとつとしてなかった。それが面白かった。
そしてシャボン玉は透けてそれぞれの背景を見せている。虹色の濃いものも居れば薄い者もいるが、みんなに背景はある。きっとこちらの位置が変わればそれぞれの背景も虹色も違って見えるのだろう。
風が強くなるとシャボン玉は出来にくいし、出来てもビューンと飛ばされてとても大変そうだ。風が穏やかな瞬間を狙ってぷーっと吹いてやると、生まれたシャボン玉も穏やかに浮かんで皆にこやかだ。それでも早々にはじけるヤツはいるし、そしていずれは皆はじけて消える。

あれから数十年が経ち、僕はあの柱とごみ箱のすき間からは這い出す事が出来たのだと思っている。あの時安全だと思っていた場所は一時しのぎには身を守れても、決して幸せになれる様な場所ではないだろう事ぐらいは、幼くてもきっと本能的に分かってたんだと思う。そこを這い出すため幼かった僕に出来る事は、疲れ果てて眠る事だったんだろう。そして這い出た所があのベランダだった。

他人はシャボン玉のことを短命で儚く中身がないと言うかも知れないけど、透明で虹色に輝きながら自由に空を舞うその姿に、僕はあの夏猛烈に憧れたんだと思う。そんな姿を自分の生き方に投影してしまう事が罪だとは僕は決して思わない。物知りの大人たちとは違い、経験も知識もないからこそ見る事が出来る夢がある。広がる世界があるのだ。そんな世界へと踏み出せるのは、本当の恐怖を知らない幼いころのほんの一瞬だけだろう。それは特権だと言ってもいい。
あれから僕はその隙間からは何とか勇気をもって這い出す事が出来た。その後も大きな夢をもって広大な世界へと踏み入れ多くのチャレンジもしたと思うが、同時に多くの挫折も経験した。そして気付けばあの真っ黒な大人の波の一部になってしまっているのかも知れない。それが良いことなのか悪いことなのかは未だに分からないでいる。しかし大人にありがちな、己の経験の全てを肯定してしまう様な、そんな実態のない身勝手な自己満足はなんとしても避けたい。

フロントガラスにも2、3個シャボン玉が当たってはじけた。そんなことお構いなしの少年は右手のストローを丹念にシャボンの入ったボトルに浸しなが立ち上がると、ゆっくり道路の方へと歩き出した。ガレージの屋根の日陰から出た辺りで立ち止まり、のけぞるようにして胸いっぱい息を深く深く吸い込んでいる。そしてストローをくわえるとその先から勢いよく次々に無数のシャボン玉を生みだした。キラキラふわふわと虹色に輝くその実態のある物体は少年の手により確かに現実の世界へと産み落とされたのだ。少年は満足そうに、そして眩しそうにシャボン玉が舞う夏の空を眺めている。
辺り一帯の空は虹色に光る少年のシャボン玉で覆い尽くされた。