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黒犬

[3066文字]

#小説 #短編

 一人と一匹が「さようなら」をしようとしていた。

「そろそろさようならだね。」
「でもまだ、もう少し・・。」
彼女の言葉がつまった瞬間、意志とは裏腹にひとすじの涙が頬を走った。不安がらせないように頑張っているつもりでも、やはりもう会えなくなると思えば我慢など出来るものではない。
「もう一回一緒に散歩が出来たら・・。」
彼女はあわてて言葉をつなげようとしたが、やはりその先が続かなかった。薄く開いた瞼で彼女の顔を見ていた犬は、やさしい表情のままだった。
「さようならのあとに沢山散歩が出来るんだから。」
真っ黒な毛波が美しい犬は力なく毛布の上に横たわったままだったが、その言葉には微塵の怖れもない強い希望に満ちていた。
「本当に楽しかったなぁ、思い出が沢山だ。」
嬉しそうにつぶやく犬のその言葉を聞いて彼女は、たまらず声を立てて泣き崩れてしまった。子犬の頃からの思い出が涙となって一気に溢れ出した。彼女はやさしく犬の頭をなでながら、あの生き生きとしていた頃の目の輝きを探したが、残酷にも今にも消えそうな命の灯火を目の当たりにするばかりであった。
「ほら そんな顔をしないでよ、また会えるんだから。」
犬はまた会えると心から信じている。この子のためにも悲しい顔をするのはやはりやめようと彼女は決心した。
「そうね。」
彼女は思い直し涙を拭いながら毅然としているふりをする事に意識を持っていった。
「さあ、一旦おわかれね」
と言った。
「はい 一旦おわかれです」
と犬も答えた。

 犬が彼女のところに来たのは今から14年ほど前、まだ生まれて3ヶ月目の赤ちゃんだった。長く黒い毛がすべて逆立ち、まるで真っ黒い毛玉がヨチヨチと歩いている様だった。動かないでいるとどっちが頭でどっちが尻なのか、少し離れて見ると分りにくかったが、小さく小刻みに振っているシッポがかろうじて前後を示していた。
 犬は彼女を母親の様に慕った。彼女も犬を子供の様にして育てた。毎晩のように同じ布団で寝て、食事のときは必ず「待て!」と「お手!」「伏せ!」をしてから食べるのが彼女達の決まりだった。犬も「よし!」と言われるまで必死に我慢した。犬が怪我をした時、彼女は必死で犬を抱え半泣きになりながら病院に駆け込んだ事もあった。彼女が熱を出した時、犬はずっと彼女の側で添い寝した。彼女がどこへ行こうとも、犬はなるべく彼女の側にいたかった。
「まるで私の影みたいね。」
彼女のそんな言葉が犬はなんだかとても嬉しかった。彼女もどこまでも付いて来ようとするこの犬がたまらなくいとおしかった。

 こうして一人と一匹はどんな時でもいつも一緒にいた。そして雨の日以外は毎日欠かさず散歩をしたのだった。犬は散歩が大好きだった。何故ならそこには毎日新しい不思議があったからだ。そして彼女はいつもその不思議に答えてやった。ひとつひとつ丁寧に犬に語ってやった。
「あのね、葉っぱは風に揺れてるんじゃないのよ。踊ってるの。ほらみんなとても楽しそうね。」
「風はすごく遠い空からやって来るのよ。そこは誰も行った事がない、誰も知らない場所なのよ。」
「夕方空が赤くなるのは、太陽が皆とさよならするのを悲しんでるからなのよ。だから夕日を見たらまた明日ねって言ってあげましょ。」
「雨の日は散歩の神様がお休みの日なの。無理して出て行ったら神様の迷惑になるからお家にいようね。」
「セミはね嬉しい!って叫んでるのよ。だって6年も地面の下にいて、人生最後の一週間だけ外に出て来たのよ。誰だって嬉しい!って叫びたくなるでしょ?」

 犬は彼女の話を聞くのが大好きだった。この十数年間、犬はありとあらゆる不思議を彼女に尋ねたが、彼女は百年の常識を語る様にして全ての答えを語って聞かせた。そうやって月日はあっという間に過ぎていった。

 あるとき、いつも通り一人と一匹が散歩をしていた時だった。犬が不意に立ち止まり動かなくなった事があった。彼女は何かと思い犬の方を振り返ると、犬は道ばたに視線を落とし、うなだれる様にしてジッと足元の何かを見つめている。
「どうしたの?」
と言って近付き覗き込むと、そこには一匹のセミが腹を上に向けてころがっていた。犬はそれを不思議そうに見つめていたのだ。
「そうか 死んじゃうっていう意味が分らないのね。」
さすがに彼女は言葉を探し、いつもの様に即答出来なかった。二人と一匹はセミの死骸をあとにして再び歩き出したが、どことなくいつもより無口になってしまっていた。

 そのまま風通しのいい土手に出た。夕日にはまだ少し早いが、河原を行く人々からは既に昼間のせわしさは消えている。風の匂いが夏の終わりを告げていた。土手の斜面に並んで腰掛ける。彼女は犬の首筋をなでてやった。ちょっとした沈黙のあと、力なく彼女は犬に語り始めた。
「死ぬというのはね、さようならをすることなの。」
「さようなら?」
「そう、さようなら。」
「でも夕焼けみたいにまた明日会えるんでしょ?」
「いいえ、もうずっと会えないの。」
「え? ずっと?」
「そう、もうずっと。でも会えないのはその命の入れ物だけ。」
「入れ物って?」
「見たりする時の目とか、聞いたりする時の耳とかね。簡単にいえばからだ全部。」
「からだと会えなくなるの?」
「そう、だからからだが動いて作り出すものも作れなくなるの。」
「なんだか寂しくなって来たよ。」
「でも大丈夫よ、それまでに目で見たもの、耳で聞こえたものはいつでも会えるから。」
「からだと会えないのに?」
「その人が話してくれた言葉や、その人が歌ってくれた唄とかね。一緒に過ごした思い出はいつまでもずっと残るのよ。」
「一緒にご飯食べた事とか?」
「そうよ、一緒にじゃれ合って転げ回った事とか、並んでグゥーグゥー寝た事とかね。」
「思い出があればまた会いたい時にいつでも会える?」
「もちろんよ、思い出せばいいんだから簡単。だから思い出は沢山あった方がいいわね。」
「じゃあ沢山思い出を作ろうよ。」
「あははは、そうね。でもそんなこと気にしなくてもいいのよ。」
「だって・・。」
「神様はね、大好きな人との思い出はちゃんと沢山作れる様にしてくれているの。だから心配しなくても大丈夫なのよ!」
彼女はそう言い切って草の斜面を跳ねる様にして立ち上がった。犬もつられて立ち上がった。太陽がまた今日という日を惜しみ始めている。彼女と犬は太陽に向かっていつもの様にそっとつぶやいた。
「今日もありがとう、また明日ね。」

 もう何も動かなくなった身体を感じながら、犬はその時の話を思い出していた。そして命の入れ物が自分でなくなりつつあるのを感じていた。身体がただの入れ物に過ぎないのを実感していた。あの話の通りになっているのを少し嬉しいとも思った。
「また会おうね。」
犬はつぶやいた。彼女は再び涙があふれるのを止められなかった。
「そうね、こんなに沢山思い出があるんだもん、またすぐに会えるわよ。」
それを聞き終わると犬は「じゃあまたね。」と言って目をつむった。彼女もあわてて「またね。」と言った。幸せそうに、眠る様に、犬の身体は入れ物だけになった。その入れ物に向かって彼女は小さく、
「さようなら、ありがとう。」
と言って泣いた。

 一人と一匹はこうしてひとつの思い出になった。もう二度と「さよなら」を言わなくてすむように。