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インドの神髄

[2721文字]

#小説 #短編

「インド人の作るカレーが必ずしも旨いとは限らぬ。」
「はぁ?」
弟子はまたこの師匠妙な事を言い出したなと思った。
「もしくは、カレー好きのインド人だからこそ、他所のカレーは食えぬという場合もある。」
自分の頭と椅子の背もたれを同時に抱え込む様にして座っていた弟子は、ここに来た事を少し後悔し始めていた。
「なんの話ですかそれ、僕はただ女心が分らないと言ってるだけですけど。」
それでなくとも意気消沈して真っ当にものを考える余裕がない時に、いつもの師匠の遠回しなしゃべり癖と知りつつも、弟子はその激しい貧乏揺すりが示す様に明らかにイライラしてしまっていた。当の師匠は作務衣の袖の中で腕組みをし悠然と窓の外を見つめている。
「インドは遠い・・。」
また余計な一言を師匠は呟いた。それを聞いた弟子はわざとらしく大げさなため息をひとつ吐き出し、自分のカバンを引き寄せ中身をガソゴソと荒っぽくかき回した。
「だからなんの話をしてるんですか!僕はただなぜ彼女にドタキャンされたのかが分らないだけなんですから。」
「さもあらん・・。」
「あのね、分らないなら分らないって素直に言ってもいいんですよ?別に師匠が女心を熟知してるなんて、正直これっぽちも思ってませんから。」
ようやくカバンから取り出したのは飲みかけのペットボトルと、布製の丸々太った財布だった。弟子は財布を近くのテーブルに置きペットボトルのフタを、ガサツに開けグビグビ音を立てて飲み始めた。
「どんな映画だね?」
師匠は弟子がドタキャンされたデートの切り口に用意していた映画の内容を聞いている。弟子は横目で師匠の後ろ姿を見ながら、
「犬の映画です。」
と素直に答えた。
「犬は人のココロを蹂躙(じゅうりん)する力を持っておる。」
弟子は飲み終えたペットボトルをテーブルに置いて、その帰りの手で財布をつかんだ。
「蹂躙って、もう少しマシな言い方があるでしょうに。」
そう言いながら財布のマジックテープをバリバリと音を立て引きはがす。その音を待っていたかの様に師匠がくるりとその場回転をして、ようやく弟子と向き合う形となった。相変わらず腕組みをしている様だが、弟子からは窓の明かりが逆光になっていて細かい表情までは見えなかった。
「これです。」
と言いつつ弟子がテーブルに差し出したのは、コロコロと丸っこい子犬が嬉しそうに草原を走っている写真の入った映画チケットだった。弟子が再び師匠を見上げると、その黒いシルエットはハレーションをおこし、ウットリする程神々しく見えたことが実に腹立たしかった。
「君は犬を飼った事があるかね?」
「いえ。」
「では猫は?」
「ありませんけど、それが何か?」
「カレーは好きかね?」
「あぁもう!またカレーっすか!カレー好きっすか!?でも今カレー、関係ないじゃないすか!」
師匠は弟子の激高気味の言葉など意に介さぬ風で、再び同じ言葉を繰り返した。
「カレー好きのインド人だからこそ、他所のカレーは食えぬという場合もある。」
そう言いながら師匠は窓辺から弟子のいるテーブルへと歩み寄って来た。弟子はつい強く言い過ぎた事を少々後悔しながらその様子を監視した。
「私の言うインド人とはこの場合彼女の事である。」
「はい?」
次第に近付く師匠の顔がやっと見て取れる様になって、弟子はその視線が自分ではなくテーブル上のチケットに落とされている事で、少しホッとして足を組み直した。
「なんすかそれ!」
「カレーというのはこの場合犬である。」
「映画じゃなかったんですね、・・別にどうでもいいんですけど。」
師匠の視線は振り向いた時からずっとテーブルの一点に集中し続けていた。その一点にはコロコロと丸っこい子犬が、嬉しそうに草原を走っている写真の入った映画チケット2枚が置いてある。
「彼女は恐らく犬、もしくは猫を溺愛状態で飼っている。」
「実際飼ってますけど?だからワザワザこの映画を選んだんですから、」
師匠の鋭い眼光が一瞬キラリと瞬いた。
「そこだよ君。」
そう言いながらその時初めて師匠はその視線を弟子に向けた。
「カレー好きのインド人だからこそ、他所のカレーは食えぬ道理があるのだ。」
弟子は初めてハッ!と思った。師匠は弟子のその微妙な表情を捕らえ間髪入れずに語りだした。
「犬好きであるからこそ悲しい犬の映画なぞ観れぬということを、君はもう一歩洞察できなかったのだ。良かれと思った事が時として最悪を招く事もある。だからインドは遠いというのだ。」
既に弟子はインドというキーワードを耳にしても、先程までのイライラは襲って来なかった。それどころではなかったのである。
「僕は彼女にとんでもない事をしたんですね、。」
無表情でぽつりと呟いた。他人への配慮のなさを目の前に突き付けられた弟子は、愕然とする他なかった。まして好きな女性に対してでさえそんな調子であった自分が情けない。これまでにどれだけの人達に不快感を与えて来たかを想像するだけでも、十分死に値するとさえ思えた。いや、弟子は恥ずかしさの余り、今まさに死にたいと思っていた。
「知らなかったとはいえ、僕はなんてバカだったんでしょうか。」
「無知は決して罪ではない。しかし実に罪深き事である。」
そう言われた弟子は我に返って師匠の顔を見た。しかし期待とは裏腹に師匠は再びコロコロと丸っこい子犬が、嬉しそうに草原を走っている写真の入った映画チケットを凝視していた。弟子は次の身の振り方を知りたかった。
「師匠、僕は・・。」
「ゆえに彼女は映画を嫌がったに過ぎぬ。それ以上の大意はなかろう。」
その言葉に弟子は、頭上遠くから明々と陽の光が降り注いで来たのを感じた。
「僕 行ってきます!」
「ふむ、先方もやぶさかではあるまい。」
弟子は慌ててカバンをつかみ扉のノブに飛びついたが、おもむろに振り返り師匠に向き直った。しかし師匠と視線は相変わらず合わない。師匠はまだテーブルを睨んでいた。
「ありがとうございます、やはりさすが師匠です。それから、そのチケットは2枚とも師匠に差し上げます。でもね、余ったチケットが欲しいなら欲しいと素直に言ったらどうです?僕はそういう師匠も嫌いじゃないですよ。じゃまた。」

 扉が閉まる音がして廊下を走る足音が遠ざかっていく。残された師匠は相変わらず腕組みした姿勢で、チケットを睨みつけながらそれを聞いていたが、おもむろに腕を解きテーブルのチケットをつかむと、再び袖の中で腕組みをして静かに呟いた。
「されど、今時インドといえばカレーである、とばかりとも言えまいに。」