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羽化

[2157文字] #短編 #小説


_田舎の片隅にある男が住んでいた。
_世間では中年と言われる年齢に達しているが、男は一度も結婚をしたことがない。今も小さな家に一人で暮らしている。家は小さい。街から山をいくつも超えた田舎町の、そのまた村外れにひっそり建つ家である、庭だけは都会にはあり得ない広大さがある。しかし敷地の境などははっきりしない。おそらくここが境であろうと思われるあたりは雑草に覆われ、男もこの家に住んで13年間、その辺りに足を踏み入れたことがない。洗濯物を干すスペースと、車を置くスペースと、村道に面する入り口と玄関の間の細道、縁側から3mほどのスペース、それに焼却炉の付近だけは草刈りはしてある。最後に駐在の住民調査があって以来、この8ヶ月間来客も無い。
_男は売れない小説家であった。もちろんそれでは生活は成り立たないので、朝7時からの清掃のバイトを併業として13年間務めている。夕方4時には帰宅し、毎日寝るまでの間売れない小説を書き続けている。少しでも執筆に時間を割き、庭の草は抜かないが、家の中は整然としていて、最低生活品が几帳面に配置されている。たった2間と水回りだけが付いた狭い家ではあるが、男一人の家財道具はひっそりとしていて、閑散としているという印象が強い。とても淋しい暮らし向きであった。実際男は淋しいといつも思っていた。
_月に一度、男は清掃のバイトが休みという日に、早朝から燃やせるゴミを庭の片隅にある焼却炉にすべて集め焼却する。この日も男はゴミを集めている。何かの梱包紙や請求書もあったが、主に書き損じた原稿用紙の束である。これを鉄製の焼却炉に入るだけ投げ込み、ライターで火をつける。丸められた紙類は適度に空気の通り道があり、あっというまにゴウと音を立てて燃え盛る。鉄製の煙突の先からは煙が立つ余裕もなく、代わりに青い炎を噴き上げる。男は構わず残りの紙屑を炉へ焼べ続けた。火炎地獄と化した焼却炉はその度にゴウと唸り声を上げ、煙突の先からは再び青い炎を吹き上げた。炉から伸びた鉄製の煙突は不思議なツヤ色に変化し、所によっては真紅に発光する場所もある。これは男が自ら作り上げてしまった愚作を、腹立たしさまぎれに鎮魂する業火とも言えるのかもしれない。または、この不幸せを嘆き、男にとって唯一豪胆に振る舞える時間であり、憂さを晴らせる瞬間でもあるのかもしれない。
_また次の原稿用紙の束を掴み、炉に投げ込もうとした時であった。男の手が止まった。ゴウと唸る音に混ざってジリジリという音が聞こえるのだ。何か水分を含んだものを燃やすような音である。しかし燃やしているものは全て紙屑の類である。男はふしぎがり持っていた原稿用紙の束を元の場所へ放り投げ、その音源を探し始めた。青く燃えたぎる炉の中を手をかざしながら覗き込んで見たが、それらしいものは表面には見えない。この音はそんな奥から聞こえてきているものではない。炉の表側にもそれらしいものはない。男は雑草でも燃えてるのだろうと思い、炉の裏に回り込んでみたがそれらしい状況は見当たらない。しかしふと見上げた煙突の途中に何か付着してるものが見えた。そこから白い煙が上がっている。よく見るとそれは小降りのバナナほどもある蝶のサナギであった。ジリジリという音はそこからしていた。男は慌てた。その辺の雑草を引き抜きそのサナギを急いで真紅に焼けた鉄の煙突から払い落とそうとするが、意外にもサナギは煙突から容易くは離れようとしない。その間サナギからはジリジリという音ともに白い煙が立ち昇る。叩くようにしてようやくサナギが地面に落ちた時はすでに全体の半分を炭化させていた。男は無言で煙をゆらゆらと上げているサナギの残骸を某然と見つめていた。明らかにサナギは手遅れである。ほんの10分前、火をつける前に気づいていればと、男はひどく後悔した。サナギという子宮の中で動きが取れないまま、彼は焼かれたのだ。しかもこの蝶の胎児は、己の愚作の束によって焼け死んだのである。花から花へとこの大空を、我が物顔で飛ぶことが約束されていたというのに、その運命を自分が断ち切ってしまったという自己嫌悪と、罪悪感に男は打ちひしがれた。誰も見ていないと思えば、誰に非難されることもないはずである。言わば虫けらの命といえばそれまでであるはずであるが、男は不注意な自分を憎み、未来を絶たれた蝶の胎児を思って泣いた。
_しばらくその場で泣いたあと、男は庭の南側の雑草を刈り始めた。その日の夕方まで雑草を刈り続け、ついに広大で平坦な庭をそこに出現させた。その一番奥まったところに小さな穴を掘った。焼却炉の横に冷たくなって転がっていたサナギを丁重に拾い上げ、男は庭の奥のその穴へサナギを葬った。小さな石積みをこさえ、長い時間手を合わせ再び涙した。
_それから10年が経った。男は相変わらず清掃のバイトに毎日出向き、そして未だ売れない小説を書き続けていた。しかし庭の雑草は今はどこにもない。南側の庭の一番奥には小さな石積みがそのままあった。その周りには色とりどりの花が咲きほころび、柔らかな日差しを浴び艶やかな笑顔の花々が風に揺れている。小さな家から時々庭に目を落とす男の顔も、ずいぶんと柔らかな表情になっていた。