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ポスト

[2940文字] #短編 #小説


_鉄製の扉の中腹にあるポストに今日も何かが投函された。鉄扉独特の金属的な響きでガタン!と音がする。その度に男は神経質に身を強ばらせる。投函者の足音が遠ざかるまで、なぜか息を殺しジッとしているのが癖になっている。一人暮らしの安アパートは狭く、部屋のどこに居てもその音は聞こえる。テレビを観ていようが、トイレに立っていても、風呂に入っていようが、ガタン!が聞こえると男の動作はそのままピタリと止まる。止まったままそば耳を立て、見知らぬ郵便局員の足音が遠ざかるのを確かめるのだった。足音が遠ざかると、一旦停止ボタンを解除されたかのように、男は続きの動作を始める。この時男は、投函された郵便物をすぐに取りに行くようなことは絶対にしない。なるべく投函された郵便物の存在と内容に縛られない時間を保持するためである。仕事帰りで部屋に戻った時や、買い物の用事で外出し戻ってきた時など、男は扉を開けるついでという態で、ようやくポストに溜まった郵便物に手を伸ばす。その時始めて郵便物の内容を確かめるのである。靴を脱ぎながら、カバンを置きながら、上着を脱ぎながら複数の郵便物を確かめる。その間男の表情は苦虫と渋柿を同時にかじったかのような、極めて冴えない顔をしている。つまりこの男は投函時のガタン!という音が嫌いなのではなく、投函される郵便物にひどく怯えているのであった。
_男は小さなバーを経営している。決して暗い性格ではなく、根は大変生真面目で几帳面ではあるが、気の小さいところがあった。5年前にアルバイトで入った店をそのまま当時のオーナーから引き継ぎ、真面目さを買われ1年ほど前から経営者となった。しかしそれまでのお客さんは前マスターが居なくなると同時にピタリと姿を消し、男が皮算用したように店はうまく回転していかなかった。次第に店の屋台骨は傾き、店とアパートの家賃や光熱費、仕入れや自分の食事までもが思うに任されなくなっていった。こんなに真面目に働いているのにと、男は世の中を恨んだ。各方面の支払いが滞り始めた頃、カードで借金をして一瞬クリアになったように見えたが、店の経営が立ち直ったわけではない。単に、家賃、光熱費に加え、借金の返済を増やしたに過ぎない。そしてそれらの催促が次々にポストへと投函される。電話や携帯は早々に止められている。電話が通じなくなった債務者に対し債権者は、郵便での請求証拠をこれでもかと送ってよこすのだ。男は夕方に店へ行き、深夜から明け方に帰宅するというサイクルの生活である。請求書は決まって男が自室にいる時間帯に、ガタン!という冷たい金属音を伴いやって来る。男の利点であったはずの生真面目さがジリジリと己の首を締めつけている。テレビでは年間の自殺者が3万人を超えたと言っている。毎日のようにポストに届く払いたくても払えぬ請求に怯え恐れながら、男は日々を暮らしていた。
_ある日、相変わらず客のいない店に一見さんの客が来た。すでに何軒かで飲んできた様子の中年男である。サラリーマン風のスーツを着ていたが、ネクタイはだらしなく緩み、髪はボサボサ、赤ら顔に沈み込んだ目は充血し半眼であった。客は来るなりウイスキーのロックを注文し、立て続けに3杯飲んだ。マスターに話す風でもなく、グズグズと仕事の愚痴やプロ野球、政治の批判などを散々して、また来ると言って1時間ほどで帰って行った。翌日その客はまたやって来た。その日も同じような話をして、3杯飲んで1時間ほどで帰る。その次の日もやって来たが、今度は3人連れである。3人はカウンターに座り散々会社の文句を言っては乾杯し、つごう12杯飲んで帰った。翌週はその3人の客がそれぞれ違う日、違う時間帯に別な同僚などとやって来た。口づてで人が人を呼び、日が経つにつれ店はサラリーマンの巣窟のようになっていった。ここのところ忘れていた活気の中、男は感謝をもって一所懸命働いた。店の位置づけもBARとしていた冠を和風バーとし、フードを思い切ってサラリーマンの中年が好みそうなものに変えてみた。焼き鳥、タコワサ、マグロのづけ、塩辛、煮込みなどである。タコワサやマグロは足が早いのでどうかと思ったが、意外に人気商品で新鮮なうちに売り切れた。焼き鳥は煙がひどいので、換気扇をフル回転させる。すると店の前の路地にその香りが充満した。この香りがまた絶大な集客効果をもたらした。男は頭と体をフル回転させ、死に物狂いで働いた。小さな店は繁盛した。アルバイトも雇えるほどになった。借金も完済し、家賃や光熱費も滞ることはなくなり、それどころか少しずつ利益が上がるようになっていった。
_男の生活は充実した。一人暮らしのアパートを引き払い、最近付き合い始めた彼女と共に広いマンションの3階へ移り住んだ。車のローンも組んだ。ポストは引越しに伴いマンションの1階エントランスの集合ポストに姿を変えた。もうガタン!という音に怯えることはなくなった。それから1年、男は相変わらず生真面目に仕事をし、店も安定的に忙しさを保っている。男は彼女にプロポーズし、二人は夫婦になった。ほどなく子供が出来、男は将来設計を夢見た。もう1店舗増やす計画を立て、実行した。新店舗は自分がマスターになり、これまでの店はアルバイトをマスターに昇格させ任せた。ところがその辺りから歯車が少しずつ狂い始めた。2店舗ともに収益が上がらなくなり始めた。男は焦って広告を打ったり、安売りをしたりするが、思うようにならない。男は焦った。さらに1年後、新店舗をたたんで元の店に戻り、雇っていたマスターもクビにしてしまった。しかし店は益々暇になる一方であった。
_男は寝ているベッドの上で、あのアパートの鉄扉のポストがガタン!と鳴る夢を見て、ハッと飛び起きることが増えた。となりで夜泣きに疲れた妻と子が寝ている。実際はまだ経費の滞りなどはない。多少の蓄えもある。しかし男は恐れた。あの恐怖とみすぼらしさをこの2人だけには絶対味わせたくはない。生真面目で几帳面な性格の男は妻子の寝顔をしばらく見つめてから、そのままベッドを起き上がりダイニングの電気をつけた。広告の裏紙に『お手数ですが郵便物は305号室の玄関ポストへお願いします』と書き、寝巻きのままそれを持って玄関を開け、エレベータで1階まで降り、エントランスの305と書いてあるポストの口を塞ぐように貼り付けた。翌日早速郵便物がカタンという音と共に、郵便物の束が玄関扉のポストに落とされた。妻がそれを取ってダイニングテーブルに居た男に手渡す。男は不思議な緊張感でその郵便物の束を手にする。見ると競合する他店の広告、中古車センターの広告、売りマンションの広告などのDMばかりである。男宛の請求書は一切なかった。しかしまたいつ払えぬ請求書が来るか分からない。その恐怖に打ち勝つためにも、男はポストを身近かに置いて自らを焚きつけたのであった。油断や慢心の気持ちに警鐘を鳴らす為である。この男にとってそれがポストに郵便物が落とされるガタン!という音なのである。ポストがカタンと音を鳴らす度、今日も妻子のため、お客さんの為に頑張ろうと思う男であった。